スタジオシフト代表の深澤竜也です。


私の先祖は武田信玄の家臣、武田二十四将の秋山伯耆守信友です。

知ってる人は少ないかもしれませんが、武田二十四将の中に真田幸村の父と祖父がいたのです。

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真田一族と呼ばれる人物は、真田幸隆→真田昌幸→真田幸村・・個人的にはこの3人に幸村の兄、真田信幸を加えたいところです。



上記の絵は「武田二十四将の図」信玄に使えた猛将達です。

「風林火山」で有名な山本勘助もこの中にいます。

この絵には真田幸村の祖父「真田幸隆」と武田の名門武藤家の養子になった真田幸村の父「真田昌幸」がいます。


しかし歴女の皆様のご所望は、「真田幸村」でしょうね。

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ではまず真田幸村がなぜ、戦国ナンバ-1のヒーローになったのか?

その理由から・・・・


徳川の時代、豊臣秀頼の謀反を恐れた徳川家康は、豊臣家を滅ぼすために豊臣の拠点大阪城を攻めます。

それが大阪冬の陣


徳川20万の兵、豊臣10万の兵・・・圧倒的に数的不利な豊臣方にあって、

大阪城の中で唯一堀のない南側に出丸を構え、徳川方に深い打撃を加えたのが真田幸村です。

その出丸は「真田丸」と呼ばれました。

相手を挑発して引き込んでは、鉄砲隊で打撃を加える・・・この戦法は真田一族特有の戦術、先祖から引き継いだものです。


しかし史実は少々違います。

真田丸の戦いという呼称の示すとおり真田丸のみで戦闘が起こったように思われているが、実際は大坂城南側全面に渡って戦闘が発生していたのです。

徳川方は、真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他数千、八丁目口・谷町口には、井伊と松平の兵14,000を配置。

一方豊臣方は、真田丸には真田幸村指揮の兵5,000、八丁目口・谷町口には長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されており、この軍勢が大阪城南側で激突したのです。

結果、徳川方に打撃を与えたものの、豊臣秀頼の母、淀殿が戦に尻込みをしてしまい、徳川方の和睦に応じました。

その時の条件が・大阪城の外堀を埋める事・・・しかし徳川家康は、全部の堀を埋めてしまい、大阪城は丸裸になってしまいます。



そして
大阪夏の陣

丸裸になってしまった大阪城では、すでに勝負は見えていました。

真田幸村は徳川家康から「10万石を与えるから寝返れ」という密書を放棄し、

豊臣方の先方に立ち、「真田赤備え」と呼ばれる鎧を真田騎馬軍に身につけさせ、家康の首のみを目指して、相手方の包囲を突破し、家康の直前にまで迫ります。

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この真田の赤備えも、元をたどると武田二十四将の先方『甲山の猛虎』とも謳われた飯富虎昌からきているのです。


この時家康は切腹を覚悟したが、配下の者達に止めらた・・・そこまで接近するも、助けに来た松平の鉄砲隊に討たれ、後退していきます。

そして真田幸村は安居神社にて最後を迎えます。



この負けるとわかっている戦でも忠誠心を捨てずに、活路を見いだす・・・

その武士道が、今の人達の心に響いているのでしょうね。

しかし・・これも少々付け加えなければなりません。

この戦では、真田幸村だけではなく毛利勝永、大野治房らも活躍しているのです。

真田幸村は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、毛利勝永と大野治房は、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させています。

また、真田幸村が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利隊に徳川軍が集中していたのも一因です。

さらに、真田隊が強行突破できたキッカケとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い、大混乱したことが最大の要因です。


う~~ん、そりゃそうだよね。

20万を超える相手に5千の兵だけで、敵本陣まで突入はできないですよね。


しかし、真田幸村の豊臣への忠誠心がなければ、この特攻はなかったはずです。

ではなぜ真田幸村が、これほどまでに豊臣に忠誠心を誓ったのか?

それは祖父である真田幸隆の時代まで遡ります。

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真田幸隆は真田一族の祖。

4年前の大河ドラマ「風林火山」では、佐々木蔵助が演じた役です。

信州の小豪族海野氏から出た子孫幸隆が信州真田に住み真田氏を称しました。

海野氏は武田信虎(信玄の父)、村上義清らに攻められるが、

武田信玄の才能をいち早く見抜いた幸隆は信玄に仕えることにしました。

信玄に仕えた幸隆は、敵方に内応者をつくり、敵を内部から壊す謀略戦に長け、信玄の信濃攻略に度々戦功を立てて名だたる武将となりました。

一説には・・「風林火山」の中でもそうですが、山本勘助に推挙されたとの話しもあります。


そしてその三男である真田昌幸は、武田信玄の近侍となり、信玄から気に入られ、武田家の名門武藤家の養子となり、武田二十四将に加わります。



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その後、長兄次兄が長篠の戦いで戦死したので、真田の家督を継ぎます。

武田勝頼が織田信長に敗れ、織田家に仕えて本領を安堵されるも、

本能寺の変後は徳川氏に属しました。

しかし、家康が真田の拠点沼田城を北条氏直に与えようとしたため、

これに反し、上杉景勝(直江兼続の君)と結んで、徳川軍を迎撃して破る。

ついで豊臣秀吉に臣従したが、のち秀吉の命で家康に属し、長男信幸を家康に、次男幸村を秀吉に出仕させた。


この辺で何がなんだかわからなくなります( ≧∇≦)


関ヶ原の戦いでは西軍に属し、上田城を死守、徳川秀忠はそのため合戦に遅れてしまった。

戦後九度山に幸村と流され没しました。

驚くべきは、武田~織田~北条~徳川~上杉~豊臣と主を変えて生き延びたこと。

戦上手「表裏比興の者」として家康から恐れられました。


そしてなぜ、そんな昌幸が生き延びることができたのか?

それは家康に出仕していた昌幸の長男信幸が徳川家康の信任を得たことです。

親子はそれぞれ徳川と豊臣に付き、戦をしていたのです。

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これは目立ちませんが生半可なことじゃありません。

父親と弟が敵方について、徳川の邪魔をするわけですから。



長男信幸が徳川に忠誠を誓ったのと同様に、

次男幸村は豊臣に忠誠を誓ったのですね・・・・。

それは豊臣の家臣「大谷吉継」の娘を妻に迎え、多くの子孫を残すことになる・・・真田幸村の「妻への愛」から産まれた忠誠心なんでしょうね。


しかし親子兄弟が敵になる・・・そんなことが当たり前な時代だったのです。



最後に・・・これは余談になりますが、有名な「真田十勇士」。

架空の物語ですが、実はモデルになる人物がいたようなのです。

• 上月佐助→猿飛佐助
• 霧隠鹿右衛門→霧隠才蔵
• 三好政康→三好清海入道
• 三好政勝→三好伊三入道
• 穴山小介(実在の人物)(武田の家臣穴山家の子孫)
• 由利鎌之助(実在の人物)
• 筧十兵衛→筧十蔵
• 海野小平太→海野六郎(真田の本家海野家の出)
• 禰津小六→根津甚八(真田の姻戚関係にある根津家の出)
• 望月宇右衛門→望月六郎

これはまた夢のある話しですね(^^)


本当に長くなりましたm(_ _)m

でも歴女の皆様なら、楽しんでいただけるかな??


PS.

もう一つの余談です。

大阪の陣で真田と相対したのは伊達政宗でした。

真田幸村は大阪夏の陣の前に、娘「阿梅(おうめ)」を伊達政宗の元へ送っています。

それは死を覚悟した証であり、敵である伊達政宗を信頼した行動でもあったのですね。

後に、阿梅は伊達政宗の重臣と夫婦になり、真田の子孫を残します。

う~~ん、真田幸村・・・深いな~~。