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敵兵を救助せよ!
1942年(昭和17年)3月、スラバヤ沖海戦で交戦中の日本軍に撃沈された英国軍艦の乗組員たちは、撃沈された船舶の重油にまみれ、のどの渇きと飢えに耐え、襲い来る「サメ」の恐怖と闘いながら、味方船が救助してくれることを期待して、太平洋の大海原で首から上だけを水面に浮かべて漂っていました。
漂流してすでに丸一日が過ぎようとしており、精神的にも体力的にも限界が近づいていました。
しかし、彼らの期待を裏切って、彼らを発見したのは味方船ではなく、敵船である日本艦船でした。
この翌年、1943年(昭和18年)に行われたビスマルク海海戦の折に、米軍やオーストラリア軍は日本軍漂流者を捕虜と見なさず、救助しないばかりか機銃掃射で無抵抗の命を奪ったように、交戦中の敵軍艦船に救助などは期待できず、彼らは死を覚悟しました。
英国兵士たちは、日本軍に機銃掃射されることを予想して、頭部をかばうように海に浮かぶ重油の中にさえ顔を埋めたのです。
更に、この海域は、前日には潜水艦からの攻撃によって日本軍の輸送船が撃沈されており、日本軍艦船にとってもいつ攻撃を受けるか分からない危険な海域でした。
通常は、交戦中の危険海域では漂流者を救助することはありません。したとしても、短時間だけ、そして体力の残っている兵士だけの救助です。
なぜなら、救助のためには停船しなければなりませんが、海上で停船すると攻撃の標的になり易くなってしまうからです。そうすれば、自船が撃沈される可能性さえあるのです。
ましてや味方兵の救助ではなく、敵兵の救助です。英国の漂流者たちが日本艦艇による救助をあきらめたことも、仕方ありませんでした。
その漂流者を発見したのは日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」でした。
駆逐艦は比較的小さい艦艇ですから、乗組員は200名ほどです。
海原を漂っている漂流者の数は、ざっとその倍以上の数でしたが、漂流者を発見した工藤俊作艦長は、危険海域であることを顧みず、即座に「戦いが終われば敵も味方もない。全員を救助せよ!」という命令を下しました。
雷は、機関停止して救助にあたります。
これは、戦争中の通常の救助活動ではありえないことでした。
いくら「救助活動中」の国際信号旗を掲げているとは言え、いつ敵からの攻撃を受けるか分かりません。停船した上に、機関を停止してしまうと、敵の攻撃から身をかわしたり、反撃することは全くできないのです。
それに、当初は敵からの攻撃を防ぐために警戒要員を配置して救助していましたが、救助者数が多く、敵兵が弱っていたため、工藤艦長から乗組員全員へ救助が命じられました。
まさに、艦命をかけた決死の救出作戦でした。
雷の乗組員たちは、自分たちの倍以上の数にのぼる敵兵を、艦上から縄ばしごや竹ざおを下して、それにつかまらせると甲板へ引き上げました。
しかし、中には負傷して体力が弱ってしまい自力でつかまることすらできず、海底へ沈んでいく者もありました。その様子を見た乗組員たちは、危険を顧みず海原へ飛び込んで、沈みゆく敵兵を抱え込み、その身体に綱を巻き付けて引き上げました。
そして、乗組員たちは引き上げた兵士たちにこびり付いた重油を丁寧に拭き取り、服や靴を支給し、水と食事を与えました。
それは、敵味方を越えた海の男たちの救助活動でした。
全員の救助が終わると、工藤艦長は、甲板に引き上げた敵兵の中から21人の士官を集めました。
そして、端正な挙手の敬礼をして彼らに敬意を表すると、流暢な英語で「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」とスピーチをしました。
英軍兵士たちは、危険を顧みずに敵兵を助けた工藤艦長の英断に感謝し、その後の日本海軍兵士の紳士的な振る舞いに対して、「これは夢ではないか」と何度も手をつねるほど喜んで、涙を流しました。
こうして、工藤艦長と雷の乗組員たちは漂流者422名全員の敵兵の命を救ったのです。
時を越えた感謝の念
この救出劇は、長年日本でも忘れ去られていました。
戦争中で、慌ただしいときの出来事ですから、それもまた仕方ありませんでした。
しかし、ひとりの外国人の行動が、この事実を歴史の彼方から目覚めさせたのです。
救助された兵士の中に、サムエル・フォール海軍中尉(当時)がいました。
工藤艦長に命を救われた彼は、終戦後、英国外交官として活躍しましたが、救助されたことへの感謝の念をずっと持ち続け、恩人である工藤艦長の消息を探し続けていました。
工藤艦長は、終戦後は軍人を退役して公職にも就かず、この救出劇を妻にさえ話さずに、日本の片隅でひっそりと暮らしていましたが、フォールさんがやっと工藤艦長の消息を突き止めた時には、工藤艦長はすでに亡くなっていました。
終戦から、すでに58年が過ぎていた2003年(平成15年)のことでした。
その後、89歳になったフォールさんは、2008年(平成20年)に不自由な身体を押して来日し、埼玉県川口市内の工藤艦長の墓前で感謝の気持ちを伝えました。
その時の記者会見で、「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と述べました。
このフォールさんの行動は、当時のマスメディアにも取り上げられ、工藤艦長の偉業を多くの日本人に知らせることになり、日本人の心にも大きな感動を呼んだのです。イメージ 1
海の武士道
「海の武士道」として有名になった逸話を、私が授業用にいろいろな参考資料から中学生にも分かり易く文章にまとめた道徳資料です。
この資料から生徒に学ばせたいのは、工藤艦長の人道的行動の源泉がどこにあるのかということです。
当時の国際戦時法では、交戦海域での海難救助活動は、義務付けられていませんでした。交戦中の救助活動は、自らの命を落としかねないのですから、見過ごしたとしても罪にはならなかったのです。
まして、米軍は、日本軍の漂流者には容赦なく機銃掃射をして殺戮しています。
救助した敵兵に、艦内で蜂起されでもしたらと考えれば救助しないのは致し方ないのかも知れませんが、抵抗する術のない漂流者を殺戮する非道ささえも敵軍は持っていたのです。
しかし、工藤艦長は「全員を救助せよ!」と命令しています。
その彼の英断の裏側にあったのは、何でしょうか?
そこには、フォール氏が述べたように、その源泉には日本帝国海軍が大切にした「武士道」精神が脈々と流れていました。決して、工藤艦長が特別な人道主義者だった訳ではないでしょう。伝統的精神の支柱があってのことです。帝国海軍は、「雌雄決した後は敵にあらず」という精神性を持っていました。ですから、戦闘後の敵の漂流兵士の救助活動は、邪魔をせず見守っていたと言います。
ましてや、米国のように病院船を攻撃することなどありませんでした。
しかし、未だ先の大戦を、日本側を一方的な「悪」として断罪しする「東京裁判史観」が、この日本中を闊歩しています。しかし、歴史の一片を丁寧に照らし出せば、その歴史観がいかに一方的で、偏向しているか明瞭になります。
このようなフェアな精神、敗者への労り、そして自分の危険を顧みない勇気…そういった武士道精神を体現していた日本人がいたことを、授業を通して子どもたちに伝えなければならないのです。