息子よ      原発作業員の母 | 秘密基地

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中津市 シールドベース ヤナリ で修行の日々を載せていきます☆

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 木田節子さん、58歳。原発立地町の富岡町で暮らしていた。息子さんは原発作業員として働いている。原発事故後、警戒区域にされたために、家に帰ることができず、茨城県水戸市で避難生活を送る。
 木田さんは、家と故郷を失ったショックと避難生活の中で、引き籠りになっていた。その木田さんが、ひとつの講演をきっかけに、「原発は間違い」と確信し、再稼働に反対する行動を始めた。つい5カ月ほど前のことだ。
 帰れなくなっている故郷への強い思い、原発の是非をめぐって意見の合わない息子さんとの葛藤、いままで真実を知らされてこなかったことへの悔しさ。原発立地地域から、声をあげ始めた人の言葉は、聞く者の心を揺さぶる。

 【6月30日~7月1日、いわき市内でおこなわれた「ふくしまフォーラム」での木田さんの発言と、木田さんへの取材でうかがったお話を、筆者の責任で整理・編集した】


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家も故郷も失って



 私は、福島第二原発のある富岡町に住んでいました。
 岩手から嫁に来ました。34年前です。最初は原町(現在の南相馬市原町区)に住みました。その後、夫の転勤でいわき市に移り、それから富岡に家を建てました。それが、20年前。
 20年間住んだ家は、いま警戒区域になっています。
 夫の勤務が水戸で、夫と私と娘は、水戸に避難して、昨年4月から会社の社宅に入りました。息子は、富岡から、川内村、三春町、磐梯熱海、そして原発繋がりで柏崎まで避難しました。


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(富岡町と楢葉町にまたがる福島第二原発の集合排気塔)


◇夢の中で

 震災のとき、私は東京にいた娘のアパートに来ていて、富岡の家にいませんでした。地震の後も風呂に入ったし、ご飯も普通に食べていました。だから、なんか自分ばかりが、安全なところにいて、避難場所を転々とした夫や息子に申し訳ない。「あのときになんで富岡にいなかったんだろう」と、ずっと後悔をしています。
 岩手県の釜石に親戚がいますから、親戚もたくさん亡くなっているだろうと思いました。南三陸町の友だちは、お母さんを亡くしていました。
 でも、震災以降、引き籠りになっていて、行きたくても行けませんでした。
 「ああ、うちは家族4人、何とか命があるんだから、家はもうあきらめるしかないかな」とも思うようにしました。
 それで、何とか前に進もうと思って、宮城県でガレキ撤去のボランティアに、夫と参加してみたり、いろいろなことに挑戦してみました。だけどやっぱり、何かね、できないんですよね。長続きしない。
 夜、布団の中で目を閉じると、「ああ、家に帰りたいなあ」と思って、そのうち、妄想の中で、車を運転するんです。
 避難している水戸から富岡までは遠いいんです。いわき中央インターまで高速で行って、それから慣れ親しんだ6号線を走ると、四倉港が右手に見える。次に、お仲人さんが住んでいる久之浜の街。津波に流された光景が右手に見える。そして、広野から楢葉に向かう途中に焼き餅屋さんがあって、「お世話になったな」とか。それからトンネルと坂を越えて、富岡の街に入って、自分の家の玄関に着いた。
 そしたら、鍵を忘れたことに気づくんですね。
 でも、幽体離脱というか、入れるんじゃないかと思って、すっとはいったら、入れた。夢の中ですから。
 1階から2階と、グルグルとさまよい歩いて、息子の部屋を見て、「いま息子はどこにいるんだろうか」とか、そんなことを考えているうちに、ふと目を開けると、そこには、避難している水戸の家の天井がありました。
 涙が出て仕方がありませんでした。
 そんなことが続いて、引き籠りになっていたんです。


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(警戒区域にされている富岡町の町場。国道6号線上を南に向いている)




知らなかった反省と悔しさ



 知らないことが多すぎたのです。本当に、都会の人も、原発のことを知らなかった。申し訳ありませんが、私も、富岡に20年住んでいて、知りませんでした。
 バスガイドをしていましたので、東電の仕事もしましたよ。東電の仕事でバスに乗務すれば、一所懸命、おべんちゃらもいいます。
 ただ、いろんな疑問は持ったりしていました。
 六ヶ所村にもガイドでいきました。先祖代々の土地を二束三文で売ってしまい、入ったお金も使ってしまって、最後は家族は離散。そういう人の話もあるんです。六ヶ所村の人たちがみんなものすごいお金持ちと思われていますが、そうとは限らない。ガイドでいったとき、乗客にそんな話もしてきました。
 でも、自分が住んでいる富岡近辺の原発については、考えることはなかった。反省というか、申し訳ないという気持ちです。


◇きっかけは

 震災以降ずっと引き籠っていましたが、その間、広瀬隆さんや鎌田慧さんや小出助教の本などをたくさん読みました。
 そんなとき、今年2月、避難先の水戸から16キロのところにある東海第二原発を再稼働させようという動きが始まっていたんですね。
 娘が「行ってみたら」というので、2月12日、東海村の村長さんの講演を聴き、福島大学の先生のお話を聞きました。
 それからです。「あなたは、あなたの大切な夫、息子に、原発で働けと言えますか。私は言えません。原発作業員の母より」と書いたプラカードを掲げて、デモに参加したりするようになりました。いまは、もう、首相官邸前でマイクなんかもったりしています。大飯町にも、福島の女性たちといっしょに訴えに行ってきました。


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息子は原発作業員



 私の息子は、いま30歳。原発の作業に入ったのは、19歳から。もう10年です。
 息子は、現在、福島第二原発の近くに事務所のある原発関連会社に勤めています。そこに勤めて2年です。
 その前は、4次請けか5次請けの会社です。時々、息子の部屋の掃除をしているときに給料明細が出てきたんですけど、8年間勤めて、28歳なのに給料は17万円ぐらいでしたね。
 その後、最初の会社を辞めてから、源泉徴収票が送られて来ました。それを見た息子が、「俺、ボーナスなんかもらってないのに、ここに8万円って書いてある」って。そういうもんなんですね。
 もう少し給料のいいところをということで、今の会社に移りました。その会社は、勤めて2か月で、ボーナス10万円をもらいました。給料も、そこそこになったのではないかなと思います。


◇いやあ、危なかったよ

 息子からは、原発のことをいろいろ聞きました。
 一昨年、「トラブル発生で、今日は帰れません」ってメールが来ました。翌日、帰ってきたとき、「どうしたの?」ってきいたら、「いやあ、危なかったよ。やっと止まった」って。原発が「危なかった」とか、「やっと止まった」ってどういうことですか。〔※〕
 それから、原子炉の中に、ペンチだとか、何かが落ちるそうですね。東電の社員に、「水の中にあんなにいろいろ落ちていて、いいんですか?」っていったら、「余計なことを言うな」って、怒られたそうです。
 そして、そういった落ちたものを、人間が拾ってくるんですって。「どんな格好して入るの?」って聞いたら、「潜水夫みたいな恰好。一人では被れない鉛の帽子で。それから何十キロもある鉛のスーツを着て。そうやってあの高線量の(原子炉水の)中に入る」って。日本人は(線量が高すぎて、法律上)できないので、外国人が日本に来て、一回潜っただけで100万とか200万とかと稼いでいくそうです。

 〔※2010年6月の福島第一原発2号機の水位低下事故か〕


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(今年2月から書き始めてノートが4冊になった。考えたこと、しゃべりたいことを書きためている)


◇収束作業

 震災後、息子は、東電に出向です。
 東電に出向というと聞こえはいいですが、警戒区域の線量計測、スクリーニングの立ち会い、やがては福島第一原発のガレキ撤去とか…。
 東電は、社員を被ばくから守るために、協力企業に要員を出させる。それを断ると、「仕事を回さないぞ」と言われるので出すしかない。それでうちの息子が行くことになった。こんな構図だそうです。




息子を取り戻したい



 震災後しばらくの間、息子が水戸に来たときには、好きなものを食べさせてあげて、酒も飲んで、楽しく過ごしていました。
 だけど、今年の正月明け、全国の原発の再稼働の話が出たとき、「全く、この国は懲りない国だよね。福島でこんなことをしておきながら、再稼働だって」と、息子がご飯を食べているそばで言ったら、息子が、「それでも、この国は資源がないから、原発がないとだめなんだよ。お母さん」って言うんですね。
 私は、震災後、広瀬隆さんとかの本をたくさん読んでましたから、「だから、お前はバカなんだ」って言いました。それで、息子のマインドコントロールを解きたくて、原発がいかに間違っているかということをこんこんと話しました。そして、「読め」って言って、本も買って持たせてやったんです。
 だけど、たぶん、読んでない。読んでいれば、原発作業員が、政治家や電力会社や学者に利用されているということが、わかったはずですよ。
 でも、息子は、原発問題について、勉強をしないんです。何で勉強しないか。怖いからですよ。怖いから勉強をしないんですよ。
 だから、いまでも、思いは通じないんですよね。
 私の話がうるさくなったのか、息子は、避難先に来なくなりました。
 日本の原発というのは、60年ぐらい前に、政治家と科学者と電力会社がもうかるように最初からつくられた構図だったんですね。でも、問題は、原発の末端の労働で被ばくすること。そこで、政治家や電力会社の幹部たちは、「田舎に原発をつくって、地元で雇用して、そいつらにやらせればいいじゃないか」って言ったというのですね。本で読みました。
 「被ばくする作業は、こいつらにさせればいいじゃないか」って言われている。そんな風に言われていることも知らないで、息子は10年も原発で働いている。しかも、原発が爆発して自分の住むところも追われている状態なのに、「日本には原発が必要だ」なんて、息子は言っている。
 そういうのが、とっても悔しいのです。


◇あきらめずに

 その後、私がデモや集会に参加するようになって、発言などをして、それがネットなどで紹介されているのを息子が知って、「何でお母さんが、首相官邸前でマイクなんかもって、しゃべっているんだよ」って、娘のところに電話してきたそうです。娘は、「お兄ちゃんが、原発で働いているからだよ。お母さんは、息子を取り返したいって思って、やっているんだよ」って。   
 でも、私と息子は、今も分かりあっていません。対立したままです。でも、あきらめず対話を続けて行くつもりです。私の活動は、息子を取り戻すためにやっているんです。それまであきらめずに続けて行きます。




白血病・悪性リンパ腫



 息子は、中学2年のときに、悪性のリンパ腫を発症しました。1年間、東京・築地のがんセンター(国立がん研究センター中央病院)で治療して助かりました。
 「10年経ったら、大丈夫。普通に子どもはできるから」と言われて、25歳のときに結婚したんですけれど、残念ながら、子どもには恵まれませんでした。
 その後、「どうしても子どもがほしい」という奥さんと気持ちが合わなくて、結局、離婚してしまいました。息子の奥さんのことを、私は大好きだったので、とても悲しかったんですけど、うちの息子と別れて他の人と結婚して幸せになれるんだったら、「仕様がないよ。別れるしかないね」ということで、認めたんですね。
 うちの息子は悪性リンパ腫でしたが、実は他にも、そういう話があります。
 今年の1月か2月、娘の友だちが水戸に遊びに来たんです。その子に、「あれー、お兄ちゃんいたよね。お兄ちゃん元気?」って聞いたら、「死んじゃったよ」って。白血病で亡くなったそうです。その子のお兄ちゃんはたぶんうちの息子と同じくらいの年。
 それから、娘が同級生の人たちと仮設住宅でボランティアをやっているんですが、その一人の男の子も白血病で、いま再発中。
 さらに、うちの息子が退院して、2年ぐらいあとに、50メートル先の家の子が、白血病になった。
 その3年か4年以内に、同じ小学校の子が、心臓疾患で外国に行って移植手術を受けています。
 富岡町のそれも半径3キロぐらいの狭い範囲で、3人の子どもが白血病、うちの息子が悪性リンパ腫で、1人が心臓疾患。これはどういうことでしょうか?


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残りの人生かけて



 58年の人生で、57年間、原発の問題に気が付かず、去年の3・11まで、考えなかったことは、申し訳なかったと思います。でも、いろいろわかってきたら、黙っていられないんですね。
 娘は、「お母さん、そんなに頑張ったって、どうせこの国は原発を再稼働するんだよ。お母さんが頑張っても通じないよ」と言いながら、応援してくれています。友人は、「どうせ、都会の人は、関心を持たないよ。私たちが、どんなに言ったって駄目なんだよ。福島がこれだけのことになっても、わからない人はわからない」と言っています。
 でも、「50代以上の人間で、絶対に、原発にケリをつけてやる。これにケリをつけないと死ねないぞ」と思ってやっています。
 それに、福島で起こったことを、福島の人間が伝えなければ、福島の犠牲は報われません。
 原発は、必ず止まります。それは、第二、第三のフクシマが起きたときか、人間の知恵と理性で止めたときです。
 電力会社のみなさん、政治家のみなさん、マスコミのみなさん、国民のみなさん、あなたはどっちを選びますか?
 たしかに、まだ小さい運動かもしれませんけれど、みなさん、毎週金曜日の東京に来て下さい。首相官邸前に集まって下さい。 (了)