野球を教えられなくなった少年野球の監督 | 秘密基地

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中津市 シールドベース ヤナリ で修行の日々を載せていきます☆

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/29405

「家族ですか? サカエにいます」と言われてどこか分からなかった。「どうぞうちに来てください。避難先を見てください」。そう促されて車に乗った。栄町かな。市の中心によくある名前だから、米沢の中心部だろうか。そんなことを考えた。

 前回に続いて、福島県南相馬市から山形県へ避難生活を続けている人を訪ねる。渡辺理明さん(40歳)とは、前回に訪問した南相馬市市民の避難先である米沢のホテルで知り合った。私が取材に来ていると聞いて、興味を持ってくれたのだ。自分の話も聞いてくれ、うちに来てくれ、と誘ってくれた。

 もう日が暮れていた。夕食の時間でもある。こんなに遅くから、ご家族にご迷惑じゃないですか。私はためらった。

 「いやいや! ウチの家族は夜の来客には慣れてますから! どうぞ寄ってください! どうぞどうぞ!」

 でっかい声だ。そしてコロコロした人懐こい笑顔。いい人そうだなあ、と思う。言葉は社交辞令ではなさそうだ。

 じゃあ、お言葉に甘えて、と車に乗せてもらったら、高速道路に上がって、どんどん米沢から遠ざかった。約1時間。山形市を後ろに過ぎ、着いたところは寒河江(さがえ)市だった。福島市から2時間、南相馬市からだと3時間以上かかる。故郷からこんなに遠いところに、と呆然とした。
ホテルの和室1部屋に5人の家族

 夜道を走って車が滑り込んだのは「シンフォニーホテル」という文字が見える温泉地の宿だった。駐車場に福島ナンバーの車が並んでいる。ここも避難した人たちの「仮住まい」に使われているのだ。

 薄暗い廊下を歩く。宴会場があり、和室が並んでいる。清潔ではあるが、まったく平凡な温泉宿だ。ドアのすき間から明かりが漏れ、テレビの音と家族の話し声が聞こえている。行楽シーズンで満員の温泉旅館のようだが、違う。やはり米沢のホテルと同じように、廊下に整理ボックスや靴箱が並び、物置のようになっている。

 渡辺さんは、ふすまを開けて「ただいまー」と中に入る。「おかえり」と声がする。私は足が止まった。部屋は10畳ほどだろうか。窓沿いに板の間がある平凡な和室に、ふとんが敷き詰められていた。洗濯物が下がっている。奥さんらしい女性が窓辺の椅子に座り、男の子がふとんに腹ばいになってテレビを見ていた。 

 「いらっしゃい」「こんばんは」。顔を上げた2人と目が合った。





「どうも、どうも」と私は無様に頭を下げる。いきなり、よそ様の居間兼寝室に入ってしまった。
ホテルの一部屋で避難生活を送る渡辺さん一家

 この和室1部屋に、渡辺さん夫婦と、3月に高校を卒業した次女、中2の長男、小4の次男の5人が暮らしているのだ。

 夜くつろぎの時間に、手土産も持たずに現れた私を、奥さんも息子さんたちも、嫌な顔ひとつせず迎えてくれる。お茶を入れ、お菓子を出してくれる。息子さんたちは自慢の野球グラブや写真を見せてくれる。そのうちに娘さんまでぬれた髪をタオルでふきながら部屋に戻ってきた。にっこり笑って「いらっしゃい」と言ってくれたのでドキドキする。人見知りするわけでもなく、モジモジするわけでもない。みんな礼儀正しくて気持ちがいい。なるほど、大人のお客に慣れているのだ。
放射能汚染されたグラウンドで野球はできない

 渡辺一家が来客慣れしているのには理由があった。渡辺さんは子供たちの成長に合わせてずっと、南相馬市で子供たちのバレーボールや野球チームでコーチ、監督を務めているのだ。長年の間に、子供たちや親とつながりが多数できた。渡辺さん夫婦は、そんなスポーツを通じたネットワークの中心にいる。

 そんな渡辺さんにとって、南相馬は何より大切な場所だ。そこは、大好きな子どもたち、教え子たちやその家族が暮らし、美しい思い出が詰まった場所だった。

 長女は大学に入り、下宿生活をしている。次女は高校を卒業して就職が決まった。野球が得意な長男は高校へスポーツ進学できそうだ。次男も学童野球で活躍している。子供好きな渡辺さん夫婦にとって、幸せな毎日だった。

 「私は故郷を愛しています。何より故郷が大事だ。しかし、それも時と場合によります」

 3月12日。最初の水素爆発が起きた日、すべては変わった。ある原発に務める親戚に電話すると「県外に逃げろ。次にどの原子炉が爆発してもおかしくない」と言われた。夕方6時前、自動車を運転して一家で南相馬を後にした。避難所の指定もないまま、山形県東根市の体育館にたどり着いた。借家の自宅は家賃を払い続けたまま帰れない。

 一度、南相馬市に戻ったついでに、奥さんと2人で自宅に行ってみた。玄関前で線量を測ったら、毎時2.7マイクロシーベルトもあった。年間に直すと23.65ミリシーベルトだ。小学校のグラウンドでも毎時2.5マイクロシーベルトだった。

 内部被曝したら? 万一娘ががんになったら? 放射能を帯びたチリを吸ったら? そう思うと、心が乱れる。そこで子どもを育てる気にとてもなれない。



夏休みが明けた9月から、周囲の子供たちが南相馬市に戻り始めた。

 「監督、戻ってこられますか」「また野球を教えてもらえますか」

 そんなメールや電話が次々に来る。

 「でも、もう無理です」

 部屋の隅のふとんのすき間に腰を下ろした渡辺さんは、ため息をついた。

 「子どもたちが心配です。グラウンドをいくら除染しても、責任が持てません。監督として、ヘッドスライディングしろ、と子供に言えるでしょうか。子供が放射能で汚染された土埃を吸い込んだらどうするのですか。それを考えると、とてもできない」

 たばこに火をつけると、ふうと吐き出した。

 「浜通り(福島県太平洋岸)も中通り(同県中部)も、全域が原発の『管理区域』と同じ(放射線量)です。おい、いくら何でもそれはねえだろう。本当にそう思います」
原発なら帰してくれない線量

 渡辺さんが被曝線量に人一倍敏感なことには理由がある。

 仕事は電気設備会社の経営である。南相馬市ではごく普通のこととして、原子力発電所の中で仕事をしていたのだ。そのための管理者資格も取った。福島第一原発にもしょっちゅう入っていた。その内部の被曝管理の厳重さをよく覚えているからこそ、渡辺さんには「今では福島県全体が原発の中と同じになってしまった」「そんなところに子供を帰すことはできない」と思うのだ。

 「管理区域の中では、防護服の腕まくりをしたって東電の人に怒られるんです。18歳未満は入れません。それと同じような線量になった福島を、半袖の子供がマスクもしないで歩いているんですよ」

 原発内部で、放射線の高いエリアは「管理区域」と呼ばれる。そこに入るには、年間の被曝量を計測して手帳につける(放射線管理者手帳=略して「放管手帳」)。B地区→C地区→D地区と線量が上がるにつれて防護服が厳重になり、色も変わる(A地区は管理区域ではない。原発の外と同じ)。

 「管理区域を出入りするには、北朝鮮と韓国の境界ぐらい警戒が厳重なんです。外へ出る時、規定より被曝が多いとブザーが鳴ってゲートが自動的に開かなくなる。除染して線量が下がらないと出してくれません。それくらい厳しいんです」





 「そのC区域と同じ線量になった浜通りをいま自動車が自由に行き来している。自動車から毎時30マイクロシーベルト出た友だちだっています。そんなもの、原発なら帰してくれない線量ですよ」

 では、政府が年間被曝許容量を1ミリシーベルトから20に引き上げたことをどう思いますか、と尋ねると、それまでにこやかだった渡辺さんの顔に怒気が走った。

 「まったく、とんでもないことです。原発の作業員だって、20ミリなんてめったに被曝しないのに」

 そして小4の息子さんを指さした。

 「なのに、この小さいのが浴びるっていうんですから」

 渡辺さんも、前回の木幡さんと同じことを言った。避難先から地元に帰ろうとしないと、こちらの方が間違っているかのように言われる、というのだ。もう地元はみんな普通に暮らしているのに。お金がほしくて逃げているのでしょう。ホテルで暮らせるから、いいね。

 危険だと思うかどうかは個人によって違うはずじゃないか。10年後に何が起きるか、誰にも分からないじゃないか。子どもの健康を祈って、最悪の事態に備えているだけじゃないか。それのどこがおかしいのか。

 渡辺さんがにこやかな顔で、元気な口調で言うので気づくのが遅れた。渡辺さんは猛烈に怒っているのだ。

 原発事故は、それまで平穏に暮らしていた南相馬の人たちの間に、争いと対立のタネをばらまいた。以前はなかったストレスを持ち込んだ。渡辺さんが長年バレーや野球の監督を務めて築き上げた人の輪も、ズタズタにしてしまったのだ。

 それは、飯舘村の愛澤卓見さんが言ったことと同じだった。放射能と同じくらい怖いのは「世間」なのだ。

 気丈な渡辺さん夫婦にとってほっとしたことは、息子たちが得意の野球のおかげで寒河江市の学校にもすぐ溶け込んだことだ。福島での就職先に出社できないままになっていた次女は、避難先になったホテルの支配人に見込まれ、そこで働き始めた。これもスポーツで鍛えたたくましさや礼儀正しさがよかったのかな、と思うと、よかったなあと感じる。



時計が午後10時を回って、次男くんは布団の上ですやすや眠ってしまった。私のような夜ふかしと違って、みなさん眠いことだろう。

 私はいとま乞いをした。

 渡辺さんはまた片道1時間高速道路を運転して、米沢の宿まで私を送ってくれた。料金所で「被災証明書」の書類を見せると、高速道路が無料になった。

 「無料だからいいんですよ。ワハハ」

 渡辺さんはハンドルを握りながら豪快に笑った。とはいえ、もう合計4時間以上運転しているはずだ。本当に気を遣ってくれている。

 街の灯が後ろに去ると、ヘッドライト以外の両側は真っ暗になった。

 真っ暗な道を、ヘッドライトはまっすぐ進んだ。

 ひとつ聞いてみたいことがあった。福島県の雇用は原発への依存度が高いという。渡辺さんも原発で仕事をしていた1人だ。その原発の事故で故郷が放射能汚染され、住めなくなるという事態に至った今、渡辺さんは原発のことをどう思っているのだろう。

 原発の仕事はやはり大きいのですか。私はそう尋ねてみた。

 「そうですね」

 渡辺さんは運転しながら、じっと考えた。

 「原発の仕事をすると月収は27万円くらいでしょうか。ここらへんでは月21万円くらいが普通です」

 じゃあ、やはり地元にとって原発は必要なのでしょうか。

 「いや」

 渡辺さんは大きく首を横に振った。

 「原発がなくなったって、私は困りません。電気が足りなくなるぞとか、ウソをついてまでやるようなことじゃない」

 とても強い口調だった。青い炎のような静かな怒りが車内を満たしていた。

 車は米沢に近づいた。このまままっすぐ走れば、南相馬に帰る方向である。

 いつか南相馬に帰れるといいですね。別れの挨拶のような軽い気持ちでそんな言葉が喉元まで出かけたが、やめた。渡辺さんがこう言っていたのを思い出したからだ。

 「故郷に子どもと帰れないことは、私にとって最大の屈辱なんです」