酪農家のお話 | 秘密基地

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中津市 シールドベース ヤナリ で修行の日々を載せていきます☆

http://www.ruralnet.or.jp/gn/201109/iidatemura.htm


福島県飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの話

 その夜、長谷川健一さんは、東京都世田谷区の区民会館会議室にいた。

 NPO主催の「飯舘村に今も住み続ける酪農家・長谷川健一さんのお話を聞く会」、参加者は60人以上。写真とビデオを使いながら2時間以上マイクを持ち続け、長谷川さんは福島県飯舘村で起きたことを東京の人たちに伝えた。3.11震災から約4カ月たった7月5日のことである。

 概要をお伝えする。

 おばんでございます。

 私は牛から牛乳を搾り、乳業メーカーに販売して生計を立てている酪農家です。今日は、狭い日本で現実に起きていることを皆さんに知っていただきたくて、東京までやって参りました。飯舘村のことを、どこかよその国の出来事のように思っている都会の方も多いと思うので、私の体験を一人でも多くの人に知らせたい、風化させたくないと強く願っています。

地震が起きたとき

 まず3月11日の地震が起きたとき、私は牧草畑におり、重機で整地作業をしていました。激しい揺れに、直感的に「とんでもねえことが起きるぞ」と思いましたが、津波や原発のことは想像できませんでした。見ると、畑が地割れしているので、ビックリして家に戻りました。幸い家は屋根瓦が落ちたくらいの被害ですみましたが、停電なので搾乳に困ります。
地図
福島県相馬郡飯舘村は福島第一原発から約40km離れているが、放射線量が高く『計画的避難区域」に指定された。6月末までには大方の村民が他地域へ避難した。
長谷川さんが区長を務める前田地区は、村北西部にある

 こういうときのために、わが家には発電機がありまして、自家発電でさっそく牛の乳を搾り、テレビも見ました。牛は毎日、乳を搾ってやらないと乳房炎という病気になってしまうので、仲間の酪農家のところ何軒かにも私の発電機を運び、順繰りに搾乳しました。停電は3日間くらい続きました。

3号機が爆発して

 3月12日の東京電力福島第一原発1号機の爆発に続き、3号機が水素爆発したのが14日午前11時頃のことです。テレビを見ていたら心配になってきたので、夜の9時頃に役場に情報を聞きに行ってみました。行政にはもともとどこでも放射能測定器が1台備わっているようで、飯舘村にもありました。担当職員に聞いてみると「えらいことだべ。40(マイクロシーベルト/時)を超してんだ」と小声でいうわけです。私は放射能のことなど当時はまったくわかりませんでしたが、それがとんでもない数字だというのはわかりました。彼は「事態の全容がわかるまでは口外するな」といわれていたようなのですが、私は「何言ってンだ! 緊急事態だろうが!」と怒鳴り、大慌てで帰って集落の班長さんたちに知らせました。私は前田地区(54戸205人)という行政区(集落)の区長をしており、この地区を守る責任があります。

 翌日の夕方、冷たい雨が降る中でしたが、地区全体の緊急集会を開きました。行政からの指示は何もありませんでしたが、私のわかる限りの情報を伝え、「放射能が来てるよ。外出するな。マスクしろ。帰ったら玄関前で上着を脱いで、すぐに風呂に入れ」などなど独断で指示しました。みんな不安に思っていたようで、全戸出席の集会でした。

 ただ、今思うと、この15日は北西の風が吹いて、放射能がちょうど飯舘村の上空にやってきたモンダイの日でした。集会に出かけてきたせいで、放射能が一番強いときの雨にみんなが当たってしまったわけで、申し訳なかったなーとも思います。この日の雨はだんだん雪に変わって、積もったままいつまでも残り、その後も放射線を村に発し続けました。

避難指示
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 そのうちようやく県のほうから「希望者は避難してください」ということがいわれ始めましたが、親戚の家などに避難した人たちは1週間もしないうちにまたゾロゾロ戻ってきてしまいました。親戚の家というのは、3~4日以上もいると気まずくなるもんなんですね。放射能はニオイも味もしないし、村は別段変わった様子もないですから、避難する必要もあまり感じない人が多い。

 国のほうは「ただちに健康に害を及ぼすレベルではない」とテレビで枝野さんが言い続けていました。私は「ただちにではなくて、いずれ害を及ぼすということか」と思いましたが、偉い学者さんたちも村に来て「安全だよ、安心だよ」とやたらにいいました。村当局がそれを鵜呑みにしたもので、結局のところ2カ月半もの間、子供達が放射能を浴び続けることになったのです。

 4月10日、いつものように「安心だよ、大丈夫」という偉い先生の講義が村内でありました。ですがその翌4月11日、「この村は危険で住んでられないから、1カ月を目処に出て行きなさい」という「計画的避難区域」の発表があったのです。飯舘村の人は「何が何だかわからない」まま、これまでの暮らし・生き方を全部捨てなくてはいけなくなったのです。
飯舘村の風景―― ガソリンスタンドも農協も郵便局も銀行もすべて閉鎖 飯舘村の風景―― ポストが封鎖された
飯舘村の風景――
ガソリンスタンドも農協も郵便局も銀行もすべて閉鎖 飯舘村の風景――
ポストが封鎖された

酪農休止

 これは私の今の牛舎の写真(330ページ参照)です。35年前から少しずつ増築しながら拡大してきた牛舎ですが、牛はすべていなくなりました。

 後継者もおります。息子はもともと調理師だったんですが、ある日「牛をやる!」と言い出しまして、嬉しかったですね。息子が必要だというので、子牛の育成牛の牛舎も借金をして、去年の12月に新築しました。そこには結局4カ月間、牛が入りましたね。

 こちらは牛乳を畑に捨てているところの写真です。地震翌日の3月12日から、牛がいなくなる6月6日まで、延々とこの作業が続きました。最初は地震の影響で、集乳車が来られないとか牛乳工場が大被害を受けたから、とかの理由だったんですが、そのうち原発のせいで出荷制限がかかり、最後はあきらめの境地でした。それでも搾らないと牛がかわいそう。かわいい牛を乳房炎にするわけにはいかないので、毎日搾って毎日捨てました。

 計画的避難が正式に決まって、5月末を目処に出て行けということになっても、牛をどうしたらいいのか、酪農業をどうしたらいいのかは、誰も何も教えてくれませんでした。国も県も村も何のフォローもないので、自分たちで考え、自分たちで決めるしかありませんでした。4月30日、飯舘村の酪農家全11戸に集まってもらい、これからのことを相談しました。牛乳は毎日搾るが捨てるしかない、牛を売ろうにも移動制限がかかっていて売れない、だがエサ代は毎日かかる……八方ふさがりです。そこで、「飯舘村の酪農家は酪農をやめる。いや『休止』する」ことをみんなで決定しました。

 ちょうどその日の夜、東電の副社長が村に謝罪に来ました。私はこらえきれなくなって会場から叫びました。「飯舘村から酪農家はいなくなります! その気持ちがあなた方にはわかりますか?」
飯舘村の風景―― 本来なら今頃は出穂前のイネが青々としているはずの田だが、草がどんどん茂ってきた
飯舘村の風景――
本来なら今頃は出穂前のイネが青々としているはずの田だが、草がどんどん茂ってきた
牛乳を畑に捨てる長谷川健一さん(*橋本紘二撮影)
牛乳を畑に捨てる長谷川健一さん(*橋本紘二撮影)

牛を見送る

 牛の処分にはその後、1カ月以上かかりました。子牛は移動制限がかかってなかったので避難させることができましたが、親牛はそうはいきません。自分たちで決めたこととはいえ、それまで私たちのために毎日乳を出してくれた牛たちを屠畜場へ送り出すのです。私はリーダーということで、村のすべての酪農家の牛の見送りに立ち会いました。泣きながらトラックを追いかける女性、男泣きする若者、たくさん見ました。

 そうして11戸の酪農家からすべて牛がいなくなりました。ふーっと肩の荷が下りたなと思った時に、もっとも恐れていたことが起きたのです。6月10日、お隣の相馬市の酪農家――私の友人で55歳――が、自ら命を絶ったのです。

 牛舎の中の黒板に白いチョークで書かれていた文字は、「原発さえなければ」です。

 これは、この一連の出来事を世の中に伝えてくれ、という彼のメッセージだと私は受け取りました。彼の旅立った行動に対して、私自身何かをやらねばという気持ちでいっぱいです。ですからこうして、よんでくださる方さえいれば全国どこにでも行って、すべてをお話ししたい。それが私の役割だと今は思っています。

 狭い日本で実際にこのようなことが起きているのです。

 もう一つショッキングなお話をしますと、飯舘村は計画的避難区域ですが、原発から20km圏内の「警戒区域」のほうは完全立ち入り禁止です。この中の牛たちは牛舎の中で餓死しています。そしてその餓死した牛の肉を、豚舎を離れた豚たちが食べているのです。頭を残して骨だらけになってしまった牛のまわりに豚の足跡がたくさんある写真が手元にあります。あまりのことなので、あとでご希望の方だけにお見せします。

村は最後に出る

 私は区長なので、集落のみんなが避難し終えるのを待って、最後に村を出るつもりです。みんなで飯舘村に戻ってきたいですが、もう戻れないのではないかという思いのほうが強いです。セシウムの半減期は30年。30年たって、今4マイクロシーベルト/時あるところが、ようやく2マイクロシーベルト/時に落ちる。まだまだ高いです。ヒマワリとか表土剥離とか、除染についてもいろいろ試みがあるようですが、飯舘村は75%が山林です。山の除染はどうにもならない。そしてその山から流れてくる水で田んぼをつくるわけだし、川の魚が育つわけです。

 今後、何をすべきなのか、どうしていったらいいのか、正直よくわかりません。ただ、こういう話を皆さんに伝えていく中で、考えていくことになるんだろうと思っています。

 今日は、ありがとうございました(注)。

注)当日の講演会はNPO法人「懐かしい未来」主催。以上は、当日の講演内容を後日の編集部取材で若干補足したものです。

後半の「飯舘村を訪ねた」以降は本誌をご覧ください。