中国で天台宗を大成させた円仁(えんにん)の直筆の石版が見つかったようです。

円仁ゆかりの岩舟町記述より抜粋「円仁とは、最後の遣唐僧として唐にわたり、日本の天台宗を大成させた世界的な偉人です。また、最初に朝廷から「大師号」を授けられた高僧でもあります。慈覚大師の後に「大師号」を受けた高僧としては伝教大師(最澄)や弘法大師(空海)などが有名ですが、「大師号」は勝手に付けられるものでなく、帝より頂くものでした。最初に大師号を授けられたことは、その偉大さを示しています。

 「慈覚大師」とは、没後に朝廷より賜った贈り名であり、俗名は円仁といいます。15歳で比叡山に登り最澄の弟子となりました。当時の日本の代表的な優れた僧となった円仁は、42歳の時、遣唐使一行に加えられました。円仁45歳の3度目の挑戦でようやく唐に着きますが、その時から、中国での9年半の苦難の旅が始まります。

円仁の入唐の目的は、天台宗の発祥の地である天台山へ行くことでしたが、旅行許可証が発行されず天台山へは行けませんでした。そこで、遣唐使船から降り、新羅人(朝鮮人)になりすまし、天台山を目指します。しかし、天台山より近いところに、五台山という仏教の聖地があり、天台宗で名高い和尚もいることから、五台山行きの意思を固めます。

   五台山行きでは、ようやく旅行許可を得て旅が出来ることとなります。この入唐からこのあと日本に帰国するまでの9年半にわたる大旅行記が「入唐求法巡礼行記」です。

 帰国後、円仁は天台宗の指導者として、比叡山において教えを伝授するだけでなく、当時文化の遅れた東北の人々の苦しみ悲しみを救おうとして、寺院の建立、土地の開発、産業の振興に力を尽くしました。平泉文化の中心である中尊寺など、大師ゆかりの寺が今も数多く残っています。

  その後、比叡山延暦寺三代天台座主となり、71歳で永遠の眠りにつきました。

 「入唐求法巡礼行記」は、玄奘(げんじよう)の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料です。日本人が書いた最初の旅行記で、しかも、玄奘やマルコ・ポーロが口述して他の者にまとめさせたのに対し、「入唐求法巡礼行記」は円仁が自ら書き残したものです。マルコポーロはローマ皇帝の命を受けて旅行しましたが、円仁は旅券すら得られない状況下から始まります。

 

 「慈覚大師円仁」が、世界的に有名になったのは、昭和39年に岩舟町を訪れた元駐日米大使ライシャワー博士が、世界の人々に広く紹介したことによります。博士は論文の中で、マルコポー口の「東方見聞録」よりも歴史的に価値が高いと評しています。

この度、河南省登封市の法王寺で円人直筆の石版がみつかりました。

これは、いい問題が作れそうです。入試チェック!