クソッたれな社会からの脱走

クソッたれな社会からの脱走

【随筆】ウィキペディア引用
 筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想や思索、思想を散文によってまとめたもの。
 とまあ気難しく書いてますが自分を表現したいだけのブログです。コメントは絶対に返します。

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転載元→http://ameblo.jp/marubou6/entry-11506440788.html
許可は取りました。

主張

“幽霊は存在しない”と主張する人は、近代科学がもたらす特殊な*パラダイムを思考の前提としてしまっている。そのパラダイムを相対化してみることで、これまで説明できなかったことが説明できるようになる。

以下、考えた内容


幽霊はいるかいないかという議論する場合に、一般的なアプローチとしては、“幽霊とは何だろう?物質だろうか?エネルギーだろうか?”というような手法、つまり近代科学の手法でせまることが多い。しかし、今回は、そもそも“いる(=存在する)とはどういうことだろうか?”という哲学的視点からこの問題を考えてみたい。

現在テレビ番組などでも取り上げられる“幽霊はいるかいないか”という議論だが、この種の議論を見ていると、科学的手法がもたらす特殊な世界観を自明の前提としてしまっているように思える。つまり、あたかも“客観的世界”なるものが、人間の存在とは独立してそこにあるかのような世界観が前提で、その“客観的世界”に幽霊が存在しているのかどうか、というような話になってしまっている。 

しかし、よく考えてみると、認識主体である人間から独立した“客観的世界”などありえないことがわかる。たとえば、目の前に鉛筆がある、空気がある、空間がある、時間がある……それらはみな自分という認識主体に認識されてはじめて存在することになる。“自分がいなくても、他の人もそれらを認識できるだろう”という異論があるかも知れない。しかし、その場合でも、“他の人”という認識主体を設定しなければならないことに変わりはない。また、“他の人がいなくてもそこに鉛筆はあるだろう”と考える人もいるかも知れない。しかし、だれもその鉛筆を認識しないとしたら、どうしてその鉛筆が存在するといえるのだろうか。

このように存在というのは、なんらかの認識主体と表裏一体であって、“客観的存在”なるものが認識主体から独立してあるというわけではないのだ。

こうして考えてくると、認識主体のあり方(仮に能力といってもいい)によって、何を認識するか、つまり何が存在するかが決まるのであり、完全に客観的な存在などありえないということがわかる。例えば、太陽がある。誰が見ても明らかに存在する。だから太陽は客観的に存在するのだ、というのは早計で、それはそれぞれの人間が認識主体としてのあり方(能力)を共有しているから、みな同じように太陽を認識するというだけの話である。視覚や皮膚感覚というような能力を持っていない認識主体を想定すれば、太陽は認識できない、つまり存在しないことになる。人間とは違う認識主体を想定すれば、太陽の存在は客観的なもの(=どの認識主体からしても同様に存在するもの)ではなくなる。

近代科学の文脈で“客観”と言われてきたようなものは、厳密に言えば、“人間という認識主体に限定して、一般的に言えば、誰でもみな同じように認識できる”という意味だ。私はそれを「一般人間共有主観」と名づけたい。つまり、それは人間の主観から完全に独立した客観なのではなく、一般的な人間(特殊な人間は除く)が、共有している主観ということだ。

そうすると、近代科学の文脈で、幽霊は“客観的に存在しない”という場合、それは“一般的な人間の主観では共通して認識できない”という意味であって、絶対的に客観的に存在しないということではないのだ。科学的な観察というのも、あくまで人間という認識主体の限界は越えられないわけだから。

人間以外の認識主体を想定すれば、何が認識できるのか、何が存在するのかも変わってくるはずだ。

 たとえば、視覚を持たない認識主体*ボンボロボンが科学的手法で世界を観察したとしても、光の存在はなかなか明らかにならないだろう。光が存在するというのは、人間という認識主体にとっては自明なだけなのである。

こう考えると、ボンボロボンが光を理解できないのと同じように、人間という認識主体の限界から、人間には理解できない要素があるのかもしれないということは否定できないだろう。その要素は他のある認識主体にとっては、人間が光を見るのと同じくらい自明のものかもしれないが。

そして、ボンボロボンの中にも変り種、突然変異みたいなのがいて、少しだけ光を感じられるというようなものがいたとしよう。それでも、多くの一般的ボンボロボンは、それがわからないから、ボンボロボンの科学では、光は客観的に存在しないことになる。言い換えると、「一般ボンボロボン共有主観」では、光は存在しないということになる。しかし、ボンボロボン以外の認識主体(例えば人間)を想定すれば、光は明らかに存在していることになる。人間にとっての幽霊だとか他の未確認要素も、ボンボロボンにとっての光のようなものかもしれない。人間世界の霊能者は、少しだけ光を感じられるボンボロボンみたいなものかもしれない。

これまで述べてきたような話は、近代以前の思想家の多くは理解していたのではないかと思われる。実際、私がこのように考えるきっかけとなったのは、*『荘子』を読んだことである。近代以前の天才たちが、現代で言う超常現象を否定しないのも「絶対的な客観」などありえないことを認識していたからではなかろうか。近代以降の人々が前提としている世界観は、「一般人間共有主観」による世界を、あたかも人間の外部に人間から独立して存在する客観的世界であるかのように誤解して成立している。近代以降に生きているわれわれは、自分たちが特殊なパラダイムの下で思考しているということに気付かなければならないと思う。

上記の議論を踏まえると、“死後の世界”についても説明することができる。死んで、認識主体としてのあり方が変わることによって、生きているときとは認識する世界が変わるのだと考えれば筋が通るのである。近代科学信仰者は、死んだら“無”だというけれど、そもそも“存在とは何か”というところで考えたように、認識主体と独立して存在を規定できるわけではない。ということは、同じように認識主体と独立しては“無”も規定できない。死んだら“無”という場合の“無”は、「一般人間共有主観」でいう“無”なのであって、絶対的に客観的に“無”なのではない。本当に人間という存在を超えた普遍的な言葉で死のことを言うのならば、“死んだら無になる”ではなく、“死んだら人間という認識主体では認識できない形になる”というほうが妥当だ。人間以外の認識主体を想定すれば、認識できる=存在するのかもしれないのだから。


*注
ボンボロボン…が例をあげるために作った架空の生物
荘子…紀元前四~三世紀の中国の思想家。またその著した書物
パラダイム…ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のこと

うーん分かりやすく素晴らしい。
ムカシトカゲのように、光を感じ取る第三の眼を持っている生き物がいるように、
霊を感じ取れる眼を持っている人間が突然変異でいるかもしれませんね。
ふと思った。

あなたは爪を切った事がありますか?
その爪はあなたですか?

いいえ、と、たいていの人は答えるのでは?

では、腕がもげたら? 足がもげたら?
それらの四肢は、あなたですか?

んー、元わたし、かな? と、答える人が出てくるかもしれません。

それじゃあ、あなたという存在はどの部分ですか?
これは難しいですね。

でも僕は、記憶だと思います。

物質的に言うと脳。
さらに細かく言うと海馬。ってことになる?

ここに、オリジナルの僕と、僕のクローン人間が一体いたとしましょう。
構造は全く同じだとします。

ただし、育った環境、経験してきた事は全く違います。
そしてクローンの僕には、彼女がいたとします。

ある日、クローンの僕が交通事故で死にました。
数日が経って、彼女の前にオリジナルの僕が偶然登場します。

オリジナルの僕を、はたして彼女は、
クローンの僕と同じように、愛してくれるでしょうか?

これには賛否両論いろいろあると思いますが。

僕には愛せないと思います。

そのオリジナルは、外見は同じでも、
彼女と過ごしてきた記憶があるわけでもなく、
性格や言葉使い、癖は全く違います。

オリジナルはクローンの記憶がない、
だから愛せないと思います。

しかし仮に、オリジナルにクローンの記憶があったとすれば?

これも難しい問題ですが、
この考え方でいくと、愛せてしまう事になります。

こう考えると、なんか違う気もしますね。

んー難しい。いったい僕は何処に?
現代社会に息苦しさを覚えたり、

自分の仕事や生活に、偽善やごまかし、

「何かが本当じゃない」という思いを感じたりしているなら

この実話の映画を観ることをお勧めしたい。


1992年アメリカ最北部、アラスカの荒野でクリストファーという若者の死体が発見された。裕福な家庭に育った優等生の彼が、なぜ全てを捨てて旅立ち、2年間の放浪の果てにアラスカで最期を迎えたのか。

昨日、TSUTAYAでこれを借りて観ました。

2時間半という長い時間も感じさせず(見終わってから時間を知ったんだけど)

この作品の主人公、クリストファー・ジョンソン・マッカンドレスの生きざまに

終始興奮しっぱなしでした。

この映画の感想を語るには、バカな僕の脳みそに詰っている語彙では表現できないです。

おそらく、いろんな書物を読んで自ら彼のように旅に出かけた時、

初めて本当の意味で共感できる。

そう思いました。 定期的に観たい作品です。