私の就職活動といえば、いまをさること・・・石器時代くらいの大昔?
 でも、やっぱり書いておきたいことがたくさんある、ような気がするので、ジャンルのお引越しをしました。よろしくね。

 私はいまでは立派な(?)株式会社の社長だけれど、なんで社長になったかというと「やりたい仕事ができる会社がなかったから」にほかならない。
 でも、そう書くと、いかにも目的意識を持ったヒトのようだけれど、もともとは「自分はいったい何ができるんだろう」ということがわからず、手当たり次第に目の前にあるものをこなしていたに過ぎない。
 
 大学には行かなかった。就職もちゃんとしていない(後述参考)
 でも、学会で論文発表やらせてもらったり(海外でもやったりね!)、MIT(アメリカの大学ね)のメディアラボと仕事をして「卒業生」扱いしてもらったり、もう、めちゃくちゃラッキー&ハッピーなことがたくさんあっていまに至っている。

 遡ると、高校時代は県立の進学校で、なんと国立理科系を希望していた。(あくまでも希望)
 それがいつのまにか私立理科系になり、国立文系になり、最後は「行きたいところが見つからないから行かない」という自堕落ぶり。
 ところが当時の担任の先生が「オマエはえらい。大学だけが人生じゃない!」なんて喜んでくれたので、「そんなものかなあ」と思って進学しなかった。
 本当はいくつか合格して「合格したけど、行かない」というハズが、世の中そんな甘くはなくて、国立、市立、私立と1つづつ受験して、みごと玉砕(笑)
 
 とはいえちょっとは心配だったから「センセイ、(この学校で)進学しないのは私だけじゃないですよね?」と聞いたところ、「もちろん、オマエひとりじゃないよ」と言われたが、どうやら私の前後10年、ドロップアウトは私ひとりだったという噂である。やられた。

 大学は行きたくなかったけれど、なんとなく「レタリングがやりたい」(文字が好き)と思い、グラフィックデザインの専門学校に入学したもののすぐに飽きて、音楽関係のミニコミ出版社に入り浸り、進級の学費がもったいなくなって中退。

「困ったなあ」と思ったものの、母が新聞の求人欄に「グラフィック・デザイナー募集」という小さな記事を見つけ(当時はカタカナ職業は珍しくて、求人もめったになかった)、秋葉原くんだりまで面接に行ったのだけれど、偶然ながら凸版印刷という大会社のなかにオフィスがあるデザイン会社で、私は19歳にして「凸版印刷アイデアセンター」の準社員扱いである「カニセデザイン事務所」社員となった。

 社長の蟹瀬さんは当時、デザイン雑誌にはバンバン登場している有名デザイナーだったというのに、私は面接時に「キミはどの雑誌を見たの?」と聞かれて、「(デザインの)雑誌なんて見たことありません」と言ってのけた。それでも採用してくれたのは、履歴書の字がきれいだった という説と、足首が細かった という説がある。
 実際には、ミニコミ出版社に入り浸っているときに、編集やデザインなど、OJTでいろいろな仕事をしていたので、年齢のわりには作品が多かった というのが理由だと思う。
いずれにせよ、結構簡単に就職できてしまった。

 私は19歳のときにデザイン会社に「グラフィック・デザイナー」として入社したわけだけれど、自慢じゃないけれど「ポスターカラー」というものをそのときまで使いこなしたことがなかった。グラフィック・デザイン課の学校に行っていた(はず)なのに、ほとんど勉強していないから、基礎はまったくわからず。ただ、出版社で実践したことしか知らないので、毎日が新鮮、ではなくて「なんで私がこんなこと、やるんだよー」という気分で、超ナマイキだったと思う。

 いまならコンピュータがあるけれど、当時はチーフが見本帖から「これとこれとこれと」と短冊みたいな色見本チップを選び出し、それと同じ色をポスターカラー(要するに絵の具)を混ぜてつくるのが私の仕事。
 黄色と青では緑になるし、赤と青では紫になるが、ビミョーな色はなかなか作れず、色を混ぜていくと濁った灰色や茶色になってしまう。つまりダメ社員。 

 それでも編集はできたし(と思う)、企業の業態開発のコンセプトや、イベント会場のPOPとかファザードのデザインをやったり、キャラクター開発をしたり、「女の子ものはまかせて!」という女王様のような仕事ぶりだった。
 
 当時は女性の仕事というと、事務か受付くらいしかない時代だったので(ああ、年がわかるわ<笑)、クリエイティブな女の子(19歳!)はとても重宝されたんですね。

 ということで、続きはまた明日。