マルクス、そして芝田進午の命日に・・・
※ この追悼文は、芝田進午さんを偲ぶ会編 『芝田進午の世界 核・バイオ時代の哲学を求めて』(桐書房、2002年6月15日、208ページ所収)の原稿を改訂した2003年8月6日版に、さらに手を加えたものである。
追悼文 芝田進午先生の魂よ、永遠に!
マルクスの死から118年のその日、2001年3月14日、一人の日本の偉大な哲学者が亡くなった。
彼が最後に立ち向かっていた「バイオハザード裁判」の判決を目前に控えて。
私は激しく動揺した。
11月にはお宅にお邪魔して長時間お話したばかりだった。
1月にもまだ元気でおられて、
「彼のような一流の哲学者がなぜバイオハザード問題に取り組んでいるのか」と考えていたときだった。
葬儀に間に合わなかった私は、弔いの気持ちと、いても立ってもいられない気持ちだったので、
判決の日には仕事を休んで東京地裁に出向いた。
「もっと彼の近くにいて、ともに歩んでいくことができたのでは」
という思いに揺さぶられた。
1975年、ベトナム勝利の興奮冷めやらぬときに読んだ『ベトナムと人類解放の思想』、
特に「アメリカ『独立宣言』の現代的意義」に展開されている基本的人権の体系の理論は、
「生きる権利」を核にしてすべての諸権利を説明し、
またマルクス主義の理論としても説明してその論理を貫徹している事に深く心を打たれた。
優れた科学的労働は同時に優れた芸術的労働であり、
すばらしい音楽と出会ったときと同様のカタルシスを感じた。
芝田進午先生ご本人との始めての出会いは、1976年7月4日の「アメリカ独立宣言200周年記念講演会」。
その4日後には、『人間性と人格の理論』を購入した。
3年後の9月29日には、「マルクス主義研究セミナー」(後に、「社会科学研究セミナー」に改称)に参加した。
芝田先生の講義は明解で、まだ大学生だった自分にも、そこで何が問題になっているかはわかった。
この20年間、入手できる先生の著作は身の回りから離す事はなかった。
それは頼りになる人生の指針だった。
芝田進午の思想はこれからが「本番」だと思う。
『実践的唯物論への道』を読むと、まだ未解明の問題が多く残されていることがわかる。
また一見多岐にわたるようにみえるテーマは実はひとつにつながっていることもわかる。
マルクスでさえ死後100年以上たっても、その大工業理論がなかなか理解されないように、
深く優れた"Arbeit"は真に理解されるには時間と条件が整わねばならないのではないか。
「現実という書物」を反映した認識が広く理解されるための決め手は、
「みんなできめたことは、みんなでまもろう」
という小学生でもわかるような基本的人権と集団的認識論に基づく民主集中制の組織原則を
あらゆる人間集団のあらゆるレベルで実現する事ではないか。
『組織的労働の理論』が完成されなかったのは、その意味でも非常に残念なことである。
だが今後は残された者がその仕事を受け継いで完成させなければならない。
これこそ芝田先生の恩に報いる最高の仕事になると信ずる。
Quando corpus morietur,
Fac ut animae donetur
Paradisi gloria.
Amen.
2003年8月6日
58年目のヒロシマの日に
見上潤
自然力 (1) ・・・MachtとKraft
Er tritt dem Naturstoff selbst als eine Naturmacht gegenüber. Die seiner Leiblichkeit angehörigen Naturkräfte, Arme und Beine, Kopf und Hand, setzt er in Bewegung, um sich den Naturstoff in einer für sein eignes Leben brauchbaren Form anzueignen.
(「人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しうる形態で取得するために、自分の肉体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。」資本論翻訳委員会訳)
Er(彼【人間】は) tritt(向かっていく) dem Naturstoff selbst(自然素材そのものに) als eine Naturmacht(一つの自然力として) gegenüber. Die seiner Leiblichkeit(彼の肉体に) angehörigen(所属する) Naturkräfte(自然諸力), Arme und Beine(腕と足を), Kopf und Hand(頭と手を), setzt er in Bewegung(動かす), um(ために) sich den Naturstoff(自然素材を) in einer für sein eignes Leben(彼自身の生活のために) brauchbaren(使用しうる) Form(形態で) anzueignen(取得する).
今回は、文章の構造がやや複雑である。その原因のひとつになっている熟語を書き出してみる。
gegenübertreten j3/et3 の前に歩み出る、に向かっていく
angehörig et3 に所属している
et4 in ~4 bringen(setzen) ~を動かす、始動させる
um~zu+inf. ・・・するために
aneignen sich3 et4 [知識・習慣などを]身につける、習得する
日本語だと、「力」となってしまうのだが、ドイツ語では、"Macht"(might,power 威圧的な力、権力)と"Kraft"(power,strength 肉体的・精神的力、エネルギー)を使い分けているようだ。もうひとつ、"Gewalt"(power,force 権力、暴力)という単語もある。
KM_DK_1.03.05.01.02.02-03.a
見上潤
人間と自然 (5) 最終訳 ・・・ニューエイジ考
"Die Arbeit ist zunächst ein Prozeß zwischen Mensch und Natur, ein Prozeß, worin der Mensch seinen Stoffwechsel mit der Natur durch seine eigne Tat vermittelt, regelt und kontrolliert. "
「働くということは、まず人間と自然の間にある一つのプロセスで、具体的には、自然におけるモノの代謝を、人間自身の行いによって仲立ちし、きちんと整え、コントロールするプロセスです。」
うーん、まだまだだなあ。「人間・自然・代謝」のようなコンセプトをすっきりと”やまとことば”で表すことはできないものか。あと、「具体的」は勝手に付け加えてしまったが、これも気になる。
1月25日の翻訳はオチャラケだった。その日の気分によって文体を変えていくことにしよう。文体を整えた本当の最終訳は当分あきらめて、様々な試みを続けることにしよう。
ところで、今年このシリーズを始めると同時に読み出した本がある。急に”ニューエイジ”という一潮流に関心が生じたからである。
1.『ニューエイジについてのキリスト教的考察
』 教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗教対話評議会 (カトリック中央協議会、2007年4月27日発行)
2.『カルト資本主義』 斉藤貴男
(文春文庫、2000年6月10日 単行本の発行は1997年6月)
自分の育った文化の中に、深くニューエイジ思想が根付いていることを、前者の本を読んで気づかされ非常に驚かされた。しかも英語でそのイデオロギーが注入されていたのだ。それは1970年前後のこと。たまたま人からもらったミュージカル《ヘアー
》のレコードを何度も聞いて、その歌詩を覚えていた。ニューエイジの考え方が懐かしいものとして思い出されたのである。この本についての丁寧なコメントをしているブログがあるので紹介しよう。
→ 地球人スピリット・ジャーナル
後者の本はちょっと恐ろしかったけれど、電車に何度も乗り過ごしながら夢中で読んだ。現代日本にマルクスがいたら、きっと参考文献にして多くの引用をするだろう。これは、読んでいただければコメントを必要としない。ここから21世紀の日本人は何を学ぶべきだろうか?
KM_DK_1.03.05.01.02.01.e
見上潤
