上記について書こうと思うのだが、当の本人は当時はまだ、小中学生だったため、主としてラジオやテレビからの記憶や数少ない雑誌等の情報からの引用や実際に生でステージで観た姉、知人友人から聞いた話に基づいております。
大半の諸先輩の方たちは”たくさんバンドがいたから名前なんか覚えていないよ、ジャズ喫茶資料もテープも何もないし”と異口同音に言う。当時から東京以北では一番賑やかだった都市なのでごもっともだと思う。
(ザ・キッパーズ)
北海道のブルーコメッツとも呼ばれ、北海道の最も有名な6人組バンドです(伊達市出身)。1963年4月に伊達高同窓生らで結成されました。当初は札幌の狸小路の小さなダンスホール等で活動をしていたが、1966年(昭和41年)頃はススキノの中心部である銀座街にあった”グランドコンパ”で伊藤美智弘とキッパーズという名前で出演していました。この頃はロックンロールやポップス、ベンチャーズ等のインストが中心であった。
その後、1967年からは南9条にあったナイトクラブ”コンコルド93”所属の専属バンドの座についてからは有名なバンドとなり、閉店になる1983年まで活動をしておりました。
北海道放送のレギュラーバンドとして活動したこともあって、札幌以外の道民からも知られる存在になっていった。
1968年の終わりには8トラカートリッジをアポロンから発売、GSカバー曲やオリジナル曲である「はまなすの恋」等が収録されています。(「はまなすの恋」はGSブームが去った1973年3月に徳間音工からやっとシングル盤「はまなすの恋/夜明けのファンタジー」が発売され、道内のラジオ音楽番組「ベスト10北海道」では第1位に輝いたこともあります。)
なお、「はまなすの恋」は石屋製菓が発売している銘菓の由来にもなっています。
レコードデビューはGS末期の1969年9月に「風のふるさと/星のロマン」をコロムビアから発売、この「風のふるさと」は北海道放送(HBC)ラジオの深夜の番組”ヤング26時”のテーマソングとして発売前の6月から2年近く流され、学生や深夜のトラック運転手からも好評で名曲として多くの方に知られるようになっていった。
テレビの「ヤング720」には1968年8月初めと1969年夏の2回出演しております。
なお、1974年5月に「星のコーラス/小雨の風景画」、1981年4月に「結婚します/ほほえみながら」というシングルも発売した。その後、1996年にはライブアルバム「My BACK PAGE」を、2003年には新曲「薔薇の追憶」も収録したアルバム「はまなすの恋」を発売している。
その後もススキノのライブスナック「キッパーズ」での演奏、道内各地でのライブ活動、ジャッキー吉川と共演したこともあり、2018年まで数回メンバーチェンジをしながらも地道な活動をしていたが、ライブスナックを閉店、バンマスの病気療養のこともあり年末に活動休止、バンマスでリードギターの渡部弘康さん(伊藤美智弘)が先月(9月)にお亡くなりになり事実上解散しました。なお、弟の渡部康雄さんはドラムスを担当しておりました。渡部弘康さんの告別式では、彼の50年来の知人は”道内GSをけん引したエレキの神様で、面倒見が良くて優しくて、皆から慕われた人でした”と言っておりました。
左端か らリーダーの渡部弘康、オルガンの田村昌彦、ベースの浜祐次、ヴォーカルの池田純(ロックンロール等はバツグン!)、ドラムスの担当渡部康雄、ヴォーカルでサックス担当の関東忠勝(「風のふるさと」や「はまなすの恋」のメインヴォーカリスト)
(ザ・サマーズ)
サマーズは1967年、室蘭、伊達、有珠町などの胆振出身の6人で結成され、室蘭で活動していたことから一般的には室蘭のGSといわれております。
当初はビートルズのコピーなどを良くされたようですが、洞爺湖畔で合宿して猛練習を積んで、1968年春にメンバーの沢ケンジによる作品「朝から晩まで/あなたのそばが」を札幌のコロンビアの特販部門によって自主制作盤を出しました。(のちの雑誌にはガレージ系のバンドと書かれております。)
それが縁で、日本コロムビアから認められ上京、1968年10月にはメジャーデビュー、Denonレーベル第1回発売としてメンバー沢ケンジ作品「たった一言/今も・・」を発表するに至りました。この曲は、外国の曲「ストップ・ザ・ミュージック」によく似た曲で、GSザ・スィングウエストもこの「ストップ・ザ・ミュージック」をこの年の春に歌っていたこともあり、一部の間でパクったな?と言っていた人もそれなりにいたが、室蘭や伊達のファンが特に多く北海道中心に小ヒットをしました。その後、翌年3月には「悲しみの跡/恋の終わりが好きさ」も発表。当初は都内のジャズ喫茶に出演していたが、あまり目立った反応もなく、帰札し、北海道放送(HBC)ラジオ局を中心に活動していた模様です。1970年に解散、ボーカルの橋アキラとドラムスの牧ツトムは後期のジャガーズに参加、ベースギターの塩川輝雄とギターの北順はダイナマイツ解散後のニューダイナマイツに参加、その後、牧と塩川はチャコとヘルスエンジェルスというアイドル系バンドにも参加をしておりました。
テレビ「ヤング720」には1968年7月末に出演しており、翌日にキッパーズが放映されていることから、おそらく上京前の札幌からの中継映像と予想されます。
サマーズには、レコード化されていない音源が見つかり、日本コロムビアから発売されたCD「GSガレッジ・パラダイス」には彼らによる未発表曲「ロンリーガール」と「二人の愛」の2曲が収録されております。
*GS人気投票では、第100位の475票を獲得されておりました。
2007年の8月には室蘭市内でサマーズ復活ライブを開いたりもしておりました。(メンバーの中には鬼籍に入られた方もいるようですが新メンバーを加えたりしながら同窓会的な催しはされている
ようです)
札幌や小樽、函館市出身者からなるR&B系のバンドで1967年6月に6人で結成。当初は札幌で活動をされておりました。
その後、翌年の1968年9月にはミノルフォンからメジャーデビューを果たしました。
そのデビュー曲は「青いささやき/恋のサイケデリック」であり、A面はムード歌謡コーラス調、B面はタイトルどおりのサイケデリック調といった具合の両極端で違うバンドが歌っているかのような曲である。 都内のメジャーなジャズ喫茶にもよく出演されておりました。
ところで、A面、B面の作曲者K.arai(新居一芳)とキッパーズ「風のふるさと」や「はまなすの恋」など作曲者彩木雅夫さん(HBCのディレクターでもあった)は同一人物であります。
「恋のサイケデリック」は鈴木いずみさんの文庫本のタイトルにも使われました。この小説にはゴールデンカップスが登場してくるのが話題になりました。彼女は、メンバーの中では特にルイズルイス加部のファンだったのではないかな。
9月末から10日間に亘って道内キャンペーン(札幌、函館、小樽、旭川、釧路など)を行ったが、期待するほどのヒットにはならなかった。札幌市内では小ヒットをしました。
念願の「ヤング720」にも1968年11月末に出演し、「青いささやき」を演奏しました。
1969年5月には第2弾として、またもムードコーラス調の「エルムの恋/ベイビー」をリリース、この曲もヒットすることはなかった。ちなみに作曲者のベン・ミラーとはあの有名な遠藤実さんのことです。
”エルム”とは北海道大学キャンパス内に自生する楡の木のことで、そばには”エルムトンネル”(北大キャンパス地下部分にトンネル方式で道路を造り、地上には歩道を設けられている)があります。
余談ですが、通常、札幌の木といえばライラック、北海道の木といえばエゾマツ、北海道の花ははまなす、札幌の花はスズランです。
その後、レコードリリースはなかったが、音源が2、3曲残されており、「女の子」と「君を送っていこう」はカルトGSコレクションミノルフォン編のCDに収録されました。
実力あるR&Bバンドとして札幌のススキノでしばらく活動されておりました。
*GS人気投票では、第53位にデビーズ1680票との記載がありますが、第210位にデイビーズ13票もあり、どちらも同じバンドだろうと言われております。
(ザ・リリーズ)
シャープファイブを1967年夏に脱退したベースギターの秋山功さんが、地元である北海道のアマチュアグループのメンバーをスカウトして1967年の11月に札幌で結成したGSであります。
ほんの数か月後には、修業方々、名古屋へ進出してディスコティークやジャズ喫茶で活躍してあっという間に人気を獲得していったそうで名古屋でのファンクラブの会員数は600人いたそうです。。
その後、名古屋から東京へ進出、ソフトロックバンドの路線で売り出されることになった。 このバンドは全員が歌も歌えるというメリットをいかしてハーモニーを重視することにしたという。
レコードデビューは1969年1月GSの宝庫と呼ばれたフィリップスから「ドアをあけて」というハッピーソングでホンキートンクピアノが効果的な楽曲であったが、ハーモニーは生かされてはいなかった。
前年には、新宿ACBといった都内のジャズ喫茶によく出演されていました。
1969年3月のミュージックライフ人気投票では第25位になっており、レコードデビュー間もない時期の割には善戦しているのではないでしょうか。
「ヤング720」には、1969年4月、5月、8月に出演をしておりますし、夏頃には夜の歌番組でもたびたび観かけた記憶があります。GS人気投票では第41位の2,129票を獲得しました。(この締切が1969年4月上旬ですので名古屋時代からのファンの票が半分近く入っていると予想されます)
1969年7月には「黒い瞳のアデリーナ」という”カサチョック”という当時フランスで流行のリズムを取り入れたカバー曲で、美しいハーモニーが生かされているように思いますが、思うようなヒットにはなりませんでした。第3弾として1970年2月に「雨のささやき」もカバー曲で出されましたが、GSは終末を迎える頃でこのシングルも期待外れに終わり、やがて解散することとなった。
なお、シングル化されていない音源には「幸せの朝」があり、この曲はフィリップスのオムニバスLP”ヤングポップスベストヒット14”の中にヤンガーズ「西暦2525年」「愛の聖書」などと共に収録されております。
(ザ・キックス)
1967年もしくは1968年に結成された5人組の札幌のGS。バンド名は、ポールリヴィアとレイダースの曲「キックス」から取った。(ちなみに、この曲はレコードデビュー直前のザ・タイガースが「シャボン玉ホリデー」の番組の中で一番のみ歌っていました)
1968年末頃、北海道放送(HBC)のスタジオで録音し、札幌コロムビアの特販から「二人の愛/ロンサム・チャイルド」を制作、A面は歌謡曲調でB面は「夜をぶっとばせ」によく似た英語詞によるゴキゲンなガレージナンバーであった。両面ともメンバーの作品で、A,B面とも作詞は飯塚良二、作曲はA面が松葉幸夫、B面が松本修さんとなっております。オルガンはエーストーン、ギターはエルクとのことです。
ところが、ジャケットを制作する前に、お蔵入りとなり結局、盤だけが数百枚残ったそうですが、有線放送で曲が何度か流れたことがあるそうで、盤のみ有線放送局に持ち込まれたものでしょう。
GS人気投票では第117位で298票を獲得されております。
「ヤング720」にはゴールデンカップスと一緒に出演したというが、年月は不明です。
ラ・シャロレーズとは年齢も近いというこもあるせいか友達のようなつきあいだそうです。
写真の一番手前の方が「ロンサム・チャイルド」を作曲した松本修さんのようです。
衣装は、ジャズ喫茶で実際に着ていたものらしい。
(ラ・シャロレーズ)
札幌市出身の5人組のGSです。
1969年にミノルフォン/ハーベストの特販で自主制作「うわさの二人/さよならしても」を北海道限定で発売されました。
両面とも、キッパーズやデビィーズ同様に北海道放送(HBC)のデレクターで作曲家の彩木雅夫さんによる作品であります。「うわさの二人」は中尾ミエさんの1969年7月発売した「忘れられた坊や」のB面にも採用されております。
「うわさの二人」はファズが効いたギター、キッチュなオルガンだが作品としては決して悪くはない。
作曲者が同一人物のせいか、少々デビィーズの「恋のサイケデリック」に似ている感はある。
その後、メジャーデビューはなく、この1曲のみに終わりました。
ベースギター 黒崎きんや
リードギター 大塚信一
ドラムス 二階堂民雄
オルガン 山田 孝
ヴォーカル 岡 輝美
シャロレーズではないが、結構上手にコピーされているので掲載させてもらいました。
(ザ・ロネッツ)
1968年7月に結成した6人組、坪田政博とザ・ロネッツで、札幌のGSです。
札幌ススキノのナイトクラブで活躍、演奏の上手さでは定評があったといわれております。
1968年に、「愛の終り」をコロムビアからの特販から自主制作。片面にはナーヴィスというバンドの曲が収録されています。どちらも悪くないと思う。
ところで、企画・制作は”ナーヴィス”とジャケットに書かれてある・・・。
「愛の終り」はフルートとオルガンの音がきらびやか、何回聴いても歌謡曲です。曲が短か過ぎる気がする、一応2分40秒ではあるが・・・。ステージでも歌謡曲系が多かったようです。
メジャーデビューは実現しませんでした。
リードギター、リーダー 坪田政博
ヴォーカル・フルート 中野ひさお
ドラムス 山口 豊
テナーサックス 斉藤四郎
オルガン 安藤のぶあき
ベースギター 高島ひとし
片面のナヴィースによる「海辺にて」という曲はフォーク調だが、GSだと思います。
坪田政博さんは解散後も音楽活動をされており、YOSAKOIソーラン祭りの曲の制作をしたり、競馬のファンファーレ等々、道内のみならず、全国、多方面で活躍されているとありました。
(ザ・ビーズ)
札幌出身のGS。
川口市の”シェイク”に1969年1月出演、その他、都内の池袋にあった”アピア”などややマイナー系のジャズ喫茶に出演した記録があります。
当時、沖縄へボルテージ同様に修業方々出稼ぎに行かれています。1968年と思われます。
又、GS人気投票では第111位331票を獲得されております。写真等を一度も見たことがないのがとても残念であります。
(ザ・スパンキーズ)
旭川市出身のGS。
ススキノのグリーンビル7Fにあった「グランドスター」で活躍していたバンドだという。
詳細は不明。
(ザ・ベガーズ)
北海道で結成されたGSでブルーインパルスの前身バンドの一つです。
リードギターの湯村寿昭さんやヴォーカルの長谷幸也さんが在籍していた。
函館市出身の橘洋介さん(後のボルテイジのボーカル)も在籍していたらしいという情報もあります。
ちなみに、ベガーズとシャイナーズ(茨城県の土浦出身GS)は名古屋のジャズ喫茶”温泉パレス”で出演時に対バンになったことが縁で、ベガーズはいったん解散、シャイナーズの3名と組み、5名でザ・ダックスというバンドを結成、東京都内や横浜のジャズ喫茶で活躍、レコードデビューにあたりブルーインパルスと名前を変えたのだった。
(ザ・ジャローズ)
札幌三越の隣のビル大型書店”丸善”の地下にあったジャズ喫茶”マルゼン”で1966年頃から出演していたバンドでGSブームの何年も前から活動されております。(当初はザ・ファミリーズというバンド名だった)
リードギターの石間秀樹やサイドギターの平井正之が抜けてアウトローズに参加、ベースの伊藤昌明はシャープファイブへスカウトされていった。他には、バームス結成前(後のボルテイジ)の柴田こうじ(リードギター)や金剛文裕(ドラムス)が在籍していた。こうした脱退が相次ぎ、ジャローズは解散を余儀なくされていったという。
バームスがボルテイジに改名する前に、どういうわけかザ・ジャローズのバンド名で横浜”ピーナッツ”で一時、演奏していたこともあるとのこと。
4.9.1(フォーナインエース)は”マルゼン”に出演したことがあります。なお、沢健一は札幌出身で、ヴォーカルとしてスカウトされる以前はギターを担当していた。(在籍していたジャズ喫茶がどこだったのかは不明)
※ 以下は、ゆかりのあるGSです!
(ザ・ビーバーズ)
アウトローズ結成前(のちのビーバーズ)は、リードギター石間秀樹や平井正之(サイドギター)、成田賢はジャローズにいました。彼らは札幌市出身です。成田賢は生まれは満州で、幼少期は、九州で育ち、中学から高校までは母親の実家、札幌で過ごしました。高校が北海道でも1、2位を争う札幌市の進学校でした。
(ザ・ボルテイジ)
ボルテイジ加入前、柴田こうじ(札幌市出身)はリードギターで、金剛文裕(厚田村出身、現在の石狩市)はドラムスをザ・ジャローズで担当していました。ヴォーカル橘洋介は函館市出身。
(ザ・ジェノバ)
「サハリンの灯は消えず」は北海道を中心に売れたといわれている。
樺太ということで北海道から近いこともあって、道民には好まれた曲だった。 ベースの佐々木章二さんは札幌市出身、ヴォーカルの山本吉明さんは函館市生まれです。
(ザ・バロネッツ)
デビュー曲「サロマの秘密」はサロマ湖を舞台としていることで、近隣都市の網走市や北見地区でレコードキャンペーンを行いました。結構良い曲だったこともあり、そこそこの成果はあったという。
ただし、北海道出身者はいません。
(シャープファイブ)
シャープファイブへ秋山功に代わって途中から加入したベースギター担当の伊藤昌明はジャローズにいた。
秋山功も札幌市出身で、その後ザ・リリーズを結成することになる。
「網走子守唄」はご当地ソングということで、やはり当時北海道ではヒットした模様です。
(レオ・ビーツ)
彼らは九州は博多出身であったが、デビュー曲「霧の中のマリアンヌ」をきっかけに、いわゆるB級GSの中では1968年に一番北海道へキャンペーンで訪れる日数が特に多かったバンドで、このデビュー曲は良くラジオや有線などで流れておりましたね。小ヒットしたと思います。少しムード歌謡曲っぽかった「別れの歌」の時もキャンペーンで訪れておりました。
(その他)
フィリピンバンドも札幌に何組かあったようです。例えば”メンズ・フューリー”というバンドは、”ジャッド”というススキノ村岡ビル内のナイトクラブで活動していたこともあったという。フィフィ・ザ・フリーと共演したこともあるとのこと。ちなみにフィフィ・ザ・フリーは、札幌冬季オリンピックのテーマ曲”虹と雪のバラード”を録音はしたものの、レコード化はされなかった。なお、ブルーコメッツの同曲はレコードリリースしたが、この曲はトワ・エ・モアの大勝利で、ピンキーとキラーズのこの曲も物足りない結果に終わりました。
・ブルーコメッツは1968年1月31日、札幌大通りの雪祭り会場に設けられたステージで演奏を始める予定が・・・あまりのファンの熱狂で急きょ、中止せざるを得なくなったという。1967年末にレコード大賞を受賞しておりブルーコメッツの人気はピークの時であった。”大ちゃ~ん”という声援が一番凄かったと会場に居た姉が言っておりました。
・オックスは1969年2月、札幌道新ホールでコンサートを実施、ところが中高生の失神者が何十人と続出、演奏は何とか最後まで続けたものの、この騒動が週刊誌に大きく取り上げられ全国的な話題になってからは、今まで以上に各会場の入口には入場させまいと高校の先生方が見張っていたり、会場自体を貸さなくなった会館もあったようでした。
なお、当時の札幌の大きな会場である、札幌市民会館や中島体育館を使用するケースが多いのに何故人気GS絶頂のオックスが700人しか収容できないこの会場を使用したのか不思議でしたが、やはり大きな会場は断られたとしか思えません。
当時の札幌市内の大通公園。左の北海道新聞社のビルの中に道新ホールがあった。その手前にちらと映っているのは当時都市銀行だった北海道拓殖銀行。
こじんまりとしているでしょう。
北海道新聞社の移転に伴い、2024年には閉館予定。
後年、天童よしみが「道頓堀人情」でやっと売れ始めた頃、コンサートでこの道新ホールを使用していました・・私は、その時たまたま道新ホールに別件で用事があったので会場の中には入っておりませんが1曲だけ歌は聴いておりました。いなかっぺ大将の挿入歌だった「大ちゃん数え歌」を歌唱中でした・・・。