●江戸時代の捕り物道具
★捕り物道具    https://ja.wikipedia.org/wiki/捕り物道具
捕り物道具(とりものどうぐ)とは、江戸時代に犯罪者の捕縛の際に使用された武器である。
・十手 与力や同心の役目としての武器である。また同心が配下の目明しに役の証明として渡していた。
・三つ道具 奉行所や番所に常備されていた刺又(さすまた)、袖絡(そでがらみ)、突棒(つくぼう)である。
関連項目
    捕具
    捕物帳 - 時代小説のジャンルの一つ。

★捕具   https://ja.wikipedia.org/wiki/捕具
捕具(ほぐ、とりぐ)とは、捕手(とりて、捕り手)が下手人(この場合は、容疑者、犯人、人質としての加害者の身内など)を捕らえるために使った道具。捕物道具(とりものどうぐ)とも。

★捕物帳  https://ja.wikipedia.org/wiki/時代小説#捕物帳
主に江戸時代を舞台とした推理小説。江戸市中で起きる様々な事件を解決していくもので、江戸町奉行所に勤めている与力や同心、また彼らから十手を預かる御用聞きが主人公である場合が多い。時代小説の主流ジャンルの一つ。
岡本綺堂の『半七捕物帳』を嚆矢とし、佐々木味津三の『右門捕物帖』、野村胡堂の『銭形平次捕物控』、陣出達朗の『伝七捕物帳』、城昌幸の『若さま侍捕物手帖』など。『人形佐七捕物帳』の横溝正史は、作品に本格ミステリを配した点に特徴がある。戦後は池波正太郎『鬼平犯科帳』が代表的だが、近年は女性作家の活躍が目覚しい。
1949年(昭和24年)、野村胡堂が中心となり「捕物作家クラブ」が結成。のちに、日本作家クラブ、日本文芸家クラブとなった。
推理要素を含むが、1950年ごろには推理小説のファンから格下に見られていたという。

★十手(實手:じって、じってい、じゅって)
https://ja.wikipedia.org/wiki/十手
日本の武器および捕具の一つ。30cm - 60cm[1]ほどの鍛鉄・真鍮・鍛銀(打ち伸ばした銀)といった金属や、樫・栗などの堅牢な木でできた棒の手元に鈎をつけたものである。敵刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用い犯人の関節を極める・押さえつける・投げるなど柔術も併用して制圧し捕縛に用いる。
十本の手に匹敵する働きをすることから「十手」であるといわれている。流派によっては実手(正字では「實手」)という表記を使用する。
十手を用いた武術を十手術(じってじゅつ)という。

★捕具(ほぐ・とりぐ・捕物道具・捕り物道具)
https://ja.wikipedia.org/wiki/捕具
捕手(とりて、捕り手)が下手人(この場合は、容疑者、犯人、人質としての加害者の身内など)を捕らえるために使った道具。捕物道具(とりものどうぐ)とも。

★捕手術(とりてじゅつ) https://ja.wikipedia.org/wiki/捕手術
素手で敵を殺さずに捕り抑える武術。取手とも書いた。
流派によっては補助武器として三道具や十手・捕縄などの捕具が使われ、こちらから先に掛かり、相手を殺さずに捕らえる事を目的とした武術である。
江戸時代中期以降は下級役人が学ぶものと考えられる傾向があった。
貝原益軒『武藝十四事』中の武芸十八般に独立した武術として含まれる。
現代の警察官の必修科目である逮捕術に相当する。

★三道具(みつどうぐ) https://ja.wikipedia.org/wiki/三道具
刺股(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)の三種類の捕り物用の道具(捕具)の総称である。
または、仕事道具で、特に重要な三種類の道具を言う。

★刺又(さすまた) https://ja.wikipedia.org/wiki/刺又
相手の動きを封じ込める武具及び捕具。刺股、刺叉とも書く。
U字形の金具に2-3メートルの柄がついており、金具の部分で相手の首や腕などを壁や地面に押しつけて捕らえる。
また先端金具の両端には折り返し部分が付いており、これを対象者の衣服の袖等に絡めて引き倒す際にも利用される。
元々は江戸時代に作られた物で、暴れる犯罪者の動きを封じ込めるために捕物用として使われた。
柄が長いため、ナイフのような小型の刃物や刀などを持った相手と距離をおいて、安全に対応することができる。ただ、構造や機能から飛び道具一般への対応は基本的にできない

★突棒(つくぼう) https://ja.wikipedia.org/wiki/突棒
江戸時代に使用された捕り物道具のひとつである。刺股、袖搦ととも三道具の一種でもある。
・概要
頭部は鉄製で、形はT字型であり、撞木に酷似している。多くの歯がついていて長い柄(2-3メートルほど)をつけている。
袖搦のように、犯人の衣服、髪をからめて動きを制圧する。
・現在は突棒術を教える流派は少ない。

★袖搦(そでがらみ) https://ja.wikipedia.org/wiki/袖搦
江戸時代に使用された長柄の捕り物道具。袖絡とも書く。もじりともいう。
袖搦は、先端にかえしのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と刺のついた鞘からなり、鞘に木製の柄に取り付けて使用する。
容疑者の衣服に先端部分を引っ掛けて絡め取る事で相手の行動を封じる。
鞘の刺は相手に掴まれて奪われない様にするための工夫である。棍棒や槍としても使用可能である。
刺又、突棒などとともに捕り物の三つ道具とよばれ、抵抗する人を取り押さえる際に使用された武具である。
どれも2.1m(7尺)の長さがあり、相手が振るう打刀、長脇差の有効範囲外から攻撃が可能である。
箱根関所跡をはじめ、各地の博物館にはこれらの武具または復元模型が展示されている。

★ポールウェポン(pole weapon)あるいはポールアーム(polearm) https://ja.wikipedia.org/wiki/ポールウェポン
近接戦闘において使われる、木や金属などで出来た竿状の長い柄を持ち、その先端に石や鉄で出来た攻撃用の部品を備えた武器の総称。
漢文では長兵、中国武術では長器械または長兵器、日本では長柄(ながえ、ちょうへい)武具、または長柄武器、棹状武器と称する。
その歴史は大変古く、石器時代の狩猟道具にまでさかのぼることが出来る。
ポールウェポンを利用する目的は、攻撃範囲の拡大および武器を振り回したときの角運動量による打撃力の増加にある。

★主なポールウェポン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポールウェポン#主なポールウェポン
日本・東アジア
・矛、鉾(ほこ)は、槍や薙刀の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。 日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。日本では鉾や桙の字も使用される
・戈(カ、ほこ)は、敵を打ち据える動作によって殺傷するのに適した穂先を持つ、古代東アジアのピッケル状の長柄武器(長兵)である。
・戟(げき、ほこ、jǐ)は、古くから中国に存在する武器で戈(か)や矛(ぼう)の機能を備えたもの。異体字として象形文字の屰がある。主に殷から唐代にかけて多用された。複数の武器の機能を併せ持たせた武器というものはヨーロッパにも見られる。
矛を思わせる先端の穂先は刺(し)、戈を匂わせる横に突き出た刃は援(えん)もしくは枝(し)と呼ばれている。刺と援は、一体のものと分かれている物がある。
・薙刀(なぎなた)は、日本の長柄武器の一種で、平安時代に登場した武具である。
・薙鎌(なぎがま、なぎかま、ないがま、ないかま)は、長さ七尺程度(約210cm)の円柱の木棒を柄とし、刃を手前にした短い直刀を柄の先端に直角に付けた武器。薙ぐ、突く、切る、刃を引っ掛けて相手を倒す、首を切るなどして使用する。流派により長柄鎌、八重鎌とも呼ばれる。
舟に絡まった藻などを切るための、柄の長い藻狩り鎌を武器に転用したものとされる。
薙刀や槍と同じ武士の調度品で源平合戦では既に使われていたとされるが、文明開化以降はほとんど残らず、教える流派も極少数である。
薙鎌を使う現存流派としては武田流八重鎌など。また、剣術併伝の鎖鎌術で薙鎌に鎖分銅を付け鎖鎌としたものを使用する流派もある。
・槍(やり)は、刺突を主目的とする猟具、武器・武具の一種。投擲することを目的としたものは投槍という。有史以前から人類が使用し続け、銃剣に代替されるまで長く戦場で使われ続けた。鎗、鑓とも書く。現代中国語で、「槍」(qiāng, ㄑㄧㄤ)という漢字は銃を表す(本来の槍と区別するために銃を「火槍」と表記することもある)。日本で(現代日本語で意味するところの)槍が使われた例は、絵画では『紙本著色拾遺古徳伝』(元亨3年(1323年))まで辿ることができ、また、「やり」という日本語は、建武政権期に大光寺合戦(1333年–1334年)で「矢利」が使用されたとあるのが初出である。
・鍬(くわ)とは、園芸や農作業、土木作業のため、土壌を掘り起こす道具。
・竹槍(たけやり)とは竹を加工して製造された槍状の簡易武器である。
・長巻 - ポールウェポンに分類されることも多いが設計思想が異なるため異論もある。
 長巻(ながまき)は刀剣の一種で、大太刀から発展した武具である。
研究者や資料によっては「薙刀(長刀)」と同一、もしくは同様のものとされていることもあるが、薙刀は長い柄の先に「斬る」ことに主眼を置いた刀身を持つ「長柄武器」であるのに比べ、長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した「刀」であり、刀剣のカテゴリーに分類される武器である。


★ながえ 【長柄】三省堂 大辞林
器物や武具の柄が長いこと。また、柄の長い器物や武具。
「―のきせる」
********
・ながつか 【長▽握/長▽柄】
(1)矢束(やつか)の長い矢。強弓に用いる。
「縦(たと)ひ強弩(きようど)・―鎮西八郎為朝と雖も透す事を得難し/文正記」
(2)柄(つか)の長い刀。

★長柄
読み方:ナガズカ
タウエガジ科の海水魚

★長柄    歌舞伎・浄瑠璃外題辞典
読み方:ナガラ
初演 享保12.11(京・万太夫座)

★長柄    古典文学作品名辞典
読み方:ナガラ
分野 謡曲
年代 成立年未詳
作者 作者未詳

★長柄
姓  読み方
長柄 おさがら
長柄 ながえ
長柄 ながから
長柄 なががら
長柄 ながら

★長柄(ながえ、ながら)   https://ja.wikipedia.org/wiki/長柄
 ・ながえ
・日本の戦国時代において足軽が用いた槍。またそれを扱う歩兵の足軽、同心などの組を長柄組とも呼んだ。
・神奈川県三浦郡葉山町の地名。逗子市にまたがって長柄桜山古墳群がある。
・群馬県邑楽郡邑楽町の地名。旧長柄村。
 ・ながら
・かつて日本の上総国に存在した長柄郡
・千葉県長生郡長柄町
・大阪市北区の地名。 → 長柄 (大阪市)を参照。
・奈良県天理市の地名。長柄駅もある。
 ・ながつか
・長い矢
・柄(握りの部分)の長い刀

★野村 胡堂(のむら こどう、1882年10月15日 - 1963年4月14日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/野村胡堂
日本の小説家・作家・音楽評論家・人物評論家。
音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびすとも。本名は野村 長一(のむら おさかず)。娘は作家の松田瓊子。
★名の由来
野村自身によると、編集の助手達が「お前は東北の生れだから、蛮人はどうだ、強そうで良いぞ」と言うのである。「蛮人では可哀相だ、人食い人種みたいじゃないか」と言うと「それでは胡堂と付けろ、胡馬北風に依るの胡だ、秦を亡ぼすものは胡なりの胡だ。堂という字はそれ、木堂、咢堂、奎堂などといって皆んなエライ人は堂という字をつける。それにきめておけ」と本人の私の意見などを無視して、翌る日の新聞の閑文字から、胡堂という署名が入ったわけである、という
★あらえびすの名の由来
野村自身によると、新聞に音楽や、絵のことを書くのに、胡堂でははなはだ堅いので、胡という字を柔らかく訓んで、「あらえびす」としたまでのことである、という。紀田順一郎によると、大正十三年、レコード評を書くにあたってつけたもので、子供のころに見た狂言で安倍貞任が「奥州のあらえびす」と威張るのが印象にのこっていたためという

★『銭形平次捕物控』(ぜにがたへいじとりものひかえ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/銭形平次捕物控
野村胡堂による小説、またこの小説を基にした映画、テレビ時代劇、舞台作品。翻案作品ではタイトルを単に『銭形平次』とするものもある。
神田明神下に住む岡っ引の平次(通称 銭形平次)が、子分の八五郎(通称:ガラッ八-ガラッパチ)と共に卓越した推理力と寛永通宝による「投げ銭」(重さ3.5グラムで、小石を投げつけるのと同じ)を駆使し、事件を鮮やかに解決していく。
岡本綺堂『半七捕物帳』と共に最も有名な捕物帳(犯罪事件を題材とした時代物の推理小説)であり、代表的な時代劇作品の一つでもある。
作品の舞台が江戸時代のいつ頃かははっきりしない。原作の最初の頃は寛永期(1624年 - 1645年、江戸初期)を舞台にしていたが、第30話から文化文政期(1804年 - 1830年、江戸後期)に移っている。
平次は架空の人物であるが、小説の設定から神田明神境内に銭形平次の碑が建立されており、銭形平次の顔出し看板も設置されている。

★『半七捕物帳』 (はんしちとりものちょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/半七捕物帳
岡本綺堂による時代小説で、捕物帳連作の嚆矢とされる。
かつて江戸の岡っ引として、化政期から幕末期に数々の難事件・珍事件にかかわった半七老人を、明治時代に新聞記者の「わたし」が訪問し、茶飲み話のうちに手柄話や失敗談を聞きだすという構成で、旧幕時代の風俗を回顧しながら探偵小説としての謎解きのおもしろさを追求する趣向の小説である。作中で「捕物帳」とは、町奉行所の御用部屋にある当座帳のようなもので、同心や与力の報告を書役が筆記した捜査記録をさしている。
近代日本における時代小説・探偵小説草創期の傑作である。1917年(大正6年)に博文館の雑誌「文芸倶楽部」で連載が始まり、大正年間は同誌を中心に、中断を経て1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは講談社の雑誌「講談倶楽部」を中心に、短編68作が発表された。他に、半七の義父である吉五郎親分を主人公とする中篇『白蝶怪』があり、しばしば番外編として扱われる。68作の中にも他人が解決した事件の手伝い、あるいは過去事件の伝聞などとして半七がほとんど、あるいは全く登場しない事件が数話存在するが、いずれも半七老人が語り始める導入部となっているのに対し、『白蝶怪』は末尾に1行、半七に関わる但し書が添えられただけの完全三人称小説であり、シリーズに含めて数えないことが多い。
また、綺堂の別作品『三浦老人昔話』は、半七老人の知人・三浦老人の話を本作『半七捕物帳』の「わたし」が聞き書きしたものという構成となっており、本作のスピンオフ的要素が多く含まれている。

★佐武と市捕物控 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐武と市捕物控
佐武と市捕物控』(さぶといちとりものひかえ)は、石森章太郎(石ノ森章太郎)による日本の漫画、また同作を原作としたテレビアニメ、テレビドラマ、小説。
・ストーリー
若い下っ引きの佐武と、居合斬りの達人の市が江戸の治安を守るために戦う。
・登場人物
佐武    声 - 富山敬(1-33話)→井上真樹夫(34-52話)
    下っ引。縄を繋ぎ、先端を尖らせた十手を投げつけて悪人を捕らえる捕縄術の名手。
    本来同心に正式に雇われている者以外に十手は与えられないため、これは自分で勝手に作ったもの(懐から覗かせて「話を聞きたい」と使うが、逆に「こいつ、御用の筋だ」と危機に曝される事もある)。後に佐平次の蹟を受け、正式に十手持ちとなる。
    元々は甲斐の寒村の出身で、貧苦にあえぐ村を飛び出して江戸に出てきたところを佐平次に拾われる。
    義理人情と正義感に篤い男前で、みどりとは相思相愛だが、若さゆえに未熟な面もある。
市    声 - 大宮悌二
    盲目の按摩師で居合抜きの達人。佐武の親友で度々捕物に手を貸す。座頭市と同じく仕込み杖を使う。白目で眉毛がなく頭髪もない(本人の言では剃っているという)。詳しい年齢は不明だが佐武よりも年上で、中年相応に飄々とした物腰だが、佐武の危機にはいかなる困難にも屈せず助けに行く熱い心を秘めている。
    子供の頃に馬に顔面を蹴られたことによる視神経切断で失明し、その不安から剣を学んだという。後にその馬に乗っていた侍と再会し、決闘で斬っている(市本人はその時の侍であったことを知らない)。

★時代劇     https://ja.wikipedia.org/wiki/時代劇
時代劇(じだいげき)は、日本の演劇や映画、テレビドラマなどで現代劇と大別されるジャンルとして、主に明治維新以前の時代の日本を舞台とした作品の総称である
・捕物帖、同心、岡っ引、目明し、十手 「銭形平次捕物控」「半七捕物帳」「人形佐七捕物帳」「伝七捕物帳」「弐十手物語」「文五捕物絵図」「神谷玄次郎捕物控」「影同心」「そば屋梅吉捕物帳」「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」「御宿かわせみ」など 奉行 「鬼平犯科帳」「大岡越前」「遠山の金さん」「右門捕物帖」「若さま侍捕物手帖」「どら平太」など

★世界大百科事典内の捕物の言及
【吟味筋】より
この下吟味(したぎんみ)にはとくに法的規制もなかったので、不正不当な取扱いもありえた。
犯罪者の逮捕を召捕、捕物といい、捕道具として十手が用いられた。
法廷を白洲(しらす)といい、冒頭手続では奉行が出席して人定尋問を行い、一応の概略を調べて未決勾留の処置を決する。

★同心のこと(町奉行5) : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録
https://wheatbaku.exblog.jp/20937661/   2013/11/14
 同心という言葉は、もとは同意・協力する人を意味しました。与力と同じように鎌倉時代から使われ、戦国時代には,侍大小の組下に編入され,その指揮に従う武士を与力・同心と言いました。与力は騎馬でしたが、同心は徒歩(かち)でしたので、与力の何騎に対して同心は何人と数えられました。
 江戸幕府では、与力と同じように多くの役職に同心がつけられました。
同心のこと(町奉行5)_c0187004_10143913.jpg 笠間良彦氏著「図説江戸町奉行所事典」によると、戦国時代に足軽と呼ばれた武士が、江戸幕府では「同心」と呼ばれるようになったようで、次のように書かれています。

★町奉行 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/町奉行
町奉行(まちぶぎょう)とは、江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。
幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸の町奉行のみを指す。
また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し遠国奉行と総称する。
なお、後北条氏の例のように、江戸時代以前に町奉行という役職が用いられたこともある。

★同心 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/同心
同心(どうしん)は、江戸幕府の下級役人のひとつ。
諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭・火付盗賊改方などの配下で、与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた。
また、諸藩においても藩直属の足軽階級の正式名称を同心としているところも少なくない。
明治維新後は卒族とされた。
江戸の南町・北町奉行所には与力が各25騎、同心が各100人配置され、江戸の司法・行政・警察の任にあたった。
このうち警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30名にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であり、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇っていた。

★与力 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/与力
与力(よりき)とは、江戸幕府における代表的な職名。なお、与力は寄騎とも書くが、これら与力・寄騎は時代によって意味が異なる。
備(そなえ)などを編成するため、江戸時代以前には、足軽大将(足軽組頭)などの中級武士が大身の武士の指揮下に入る事を意味する語句としても用いられていた。

★岡っ引(下っ引から転送)https://ja.wikipedia.org/wiki/岡っ引
岡っ引(おかっぴき)は、江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などで警察機能の末端を担った非公認の協力者。
・呼称
正式には江戸では御用聞き(ごようきき)、関八州では目明かし(めあかし)、上方では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と呼び、各地方で呼び方は異なっていた。
岡とは脇の立場の人間であることを表し、公儀の役人(同心)ではない脇の人間が拘引することから岡っ引と呼ばれた。
また、岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった。
本来「岡っ引」という呼び方は蔑称で、公の場所では呼ばれたり名乗ったりする呼び方ではないが、時代小説や時代劇でこのように呼ばれたり表現されたりすることが多い。
本項では、便宜上「岡っ引」で統一する。

★番太 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/番太
番太(ばんた)は、江戸時代に、都市に置ける夜警、浮浪者の取り締まりや拘引、牢獄・刑場などの雑用、処刑などに携わっていた人たちのことである。
都市に設けられていた木戸に接した番小屋と呼ばれる粗末な家に住み、多くは非人身分であった。
番太郎(ばんたろう)ともいう。
明治7年(1874年)に近代警察組織警視庁が士族を中心に発足したが、同年巡査の欠員500人を補充するため、番太から優秀な者を採用することとなった。
6000人中500人程度であったが、武士や与力、同心から巡査になった者は憤慨し、辞職者が相次いだという。
このため警視庁は巡査2000人を各地から募集する破目に陥った。
警察官のうち、最も階級の低い邏卒(らそつ。現在の警察制度では巡査)に当たる人たちは、薩摩藩など遠い地方から出てきた下級武士が多く、ことばもわかりづらく、行いも粗暴なところがあり、人民からは怖れられながらも田舎っぺと軽蔑されていた。
気位ばかりが高くて何の役にも立たない吏員を、番太みたいな奴などと言うこともあった。