日本の庶民文化
これは成熟していく日本の文化の融合離散が有ったから。
武家や貴族や裕福層で生れたモノも庶民から生まれ出てきたモノも融合して作り出されたモノ。
江戸時代に多いのはヤハリゆるりとした時代だったのかな。
今の時代では考えられない。
J-POPとかK-POPとか言ってるモノはタダ叫くだけ。
そう思うのは私だけかな。
余裕も無しに次へ追い立てられる。
もう少しゆったりとゆっくりとゆるりと生活したいモノです。
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◆都々逸(どどいつ)は、江戸末期、初代の都々逸坊扇歌 (1804年-1852年)によって大成された口語による定型詩。 七・七・七・五の音数律に従う。
元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里(作者不詳)
この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい(作者不詳)
浮名立ちゃ それも困るが 世間の人に 知らせないのも 惜しい仲(作者不詳)
三千世界の 鴉を殺し ぬしと添い寝が してみたい(桂小五郎説、高杉晋作説、他もあり)
逢うて別れて 別れて逢うて(泣くも笑うもあとやさき) 末は野の風 秋の風 一期一会の 別れかな(井伊直弼 茶湯一会集)
◆ 発祥
向かって右端が発祥の碑扇歌が、当時上方を中心に流行っていた「よしこの節」を元に「名古屋節」の合の手「どどいつどどいつ」(もしくは「どどいつどいどい」)を取入れたという説が有力である。
名古屋節は、名古屋の熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が関東に流れたものである。
音律数も同じであることから、この神戸節を都々逸の起源・原形と考えるむきもある。 実際、名古屋市熱田区の伝馬町には「都々逸発祥の地」碑がある。
都々逸が広まったのは、扇歌自身が優れた演じ手であっただけでなく、その節回しが比較的簡単であったことが大きい。 扇歌の時代の江戸の人々は生来の唄好きであったため、誰でも歌える都々逸が江戸庶民に受け入れられ、いわば大衆娯楽として広まった。
七・七・七・五という形式について [編集]今では、七・七・七・五という音律数自体が都々逸を指すほどだが、都々逸がこの形式のオリジナルというわけではない。
都々逸節の元になったよしこの節や名古屋節の他にも、潮来節(いたこぶし)、投節(なげぶし)、弄斎節(ろうさいぶし)などの甚句形式の全国各種の民謡があげられる。
都々逸はこれらの古い唄や他の民謡の文句を取り込みながら全国に広まった。 そのため、古くから歌われている有名なものの中にも別の俗謡等から拝借したと思われる歌詞がみられる。 例えば、
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす
という歌は山家鳥虫歌にも所収されているし、松の葉にもその元歌らしき、
声にあらわれ なく虫よりも 言わで蛍の 身を焦がす
という歌がある。
七・七・七・五はさらに(三・四)・(四・三)・(三・四)・五という音律数に分けられることが多い。 この構成だと、最初と真中に休符を入れて四拍子の自然なリズムで読み下せる。 例えば、先の唄なら、
△こいに こがれて なくせみ よりも△
△なかぬ ほたるが みをこがす△△△
となる(△ が休符)。 なお、この最初の休符は三味線の音を聞くため、との説がある。
◆ 寄席芸としての都々逸
近年の邦楽の衰退と共に、定席の寄席でも一日に一度も都々逸が歌われないことも珍しくなくなったが、少なくとも昭和の中頃までは、寄席では欠かせないものであった。 即興の文句で節回しも比較的自由に歌われることも多い。
俗曲として唄われる場合は、七・七と七・五の間に他の音曲のさわりや台詞などを挟み込む、 アンコ入り(別名さわり入り)という演じ方もある。 都々逸が比較的簡単なものだけに、アンコの部分は演者の芸のみせどころでもあった。
また、しゃれやおどけ、バレ句なども数多くあるので、演者が楽器を持つ時代の漫才のネタとして、あるいはネタの形式として使われることも多かった。
ついておいでよ この提灯に けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから
あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ
はげ頭 抱いて寝てみりゃ 可愛いものよ どこが尻やら アタマやら
◆ 文芸形式としての都々逸
元来から創作も広く楽しまれていた都々逸であったが、明治の頃から唄ものをはなれた文芸形式としても認識されるようになった。
都々逸作家と称する人々も現れ、新聞紙上などでも一般から募集されるようになった。 なかには、漢詩などのアンコ入りも試みられた。
ねだり上手が 水蜜桃を くるりむいてる 指の先(田島歳絵)
ぬいだまんまで いる白足袋の そこが寂しい 宵になる(今井敏夫)
あせる気持ちと 待たない汽車と ちょっとずれてた 安時計(関川健坊鐘)
虎を退治し 教師をまたぎ ぶってぶってと よくせがむ(姫井由美子)
内裏びな 少し離して また近づけて 女がひとり ひなまつり(寺尾竹雄)
織り込み都々逸
折句の一種あたまに季節のお題などを入れつくった都々逸。NHK文芸選評で放送されている。
●ボクのお気に入り都々逸 [50音順] http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/asobi/dodo1.htm
●現代都々逸のつくりかた http://www007.upp.so-net.ne.jp/wakazo/tsukurikata/index.html
●都々逸(どどいつ)入門 http://dodoitu.necolle.net/
●絵入都々逸集 http://www.j-texts.com/taisho/eiridoah.html
●都々逸、小唄、端歌 http://sky.geocities.jp/awashimainjin/newpage40.html
●『都々逸:粋風譚』
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%83%BD%E3%80%85%E9%80%B8&ei=UTF-8&fr=ush-jp_weather&x=wrt&meta=fl%3D3
●有名都々逸 http://tetoriako.web.fc2.com/a4/dodoitu1.htm
富士松延千代の都々逸 「お前に見しょうとて・・・・」 http://www.youtube.com/watch?v=C6__-Biiz5Y
都々逸 by 美空ひばり & 古賀政男(三味線) http://www.youtube.com/watch?v=lmdCmbkxAZE
都々逸 明神の祭礼 ちゃっきり節 http://www.youtube.com/watch?v=47lHRtIHhJs
うめ吉 "しげく逢ふのは" "都々逸" http://www.youtube.com/watch?v=wx8iRLJGerM
梅は咲いたか(俗曲)·真室川音 http://www.youtube.com/watch?v=sFOazJrP2k8&feature=related
歌唱都々逸古希 http://www.youtube.com/watch?v=cX_bDCuyJ1E
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◆都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)
都々逸、落語の名跡。現在は空き名跡となっている。
亭号は都々一坊とも表記
●名跡(みょうせき)は、家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。もしくは家名。「めいせき」と発音するのは誤り。
初代 都々逸坊扇歌は本項にて記述。
2代目 都々逸坊扇歌(生年不詳 - 1867年6月) - 俗に「女雷(めらい)の扇歌」。初代の門で都川(または
「都家」)歌女吉と言い、元祖(初代)死後まもなく襲名。番付には、亭号は「都々一」「都々一尼」等で記
されている。都川歌丸の妻、つまり女性。
3代目 都々逸坊扇歌(1829年(逆算) - 1880年4月5日) - 上方出身の僧侶で4代目船遊亭扇橋の門で扇三郎
より扇歌となった。足が不自由だったとされる。本名は斎藤豊吉。享年51
4代目 都々逸坊扇歌(1855年9月 - 1897年9月25日) - 2代目同じ女性。幼少の時代からは東家小満之助の名
で寄席に出る。1886年には顔付に名が存在するのでその頃に4代目襲名。この4代目は都々逸扇歌で高座に上が
っていた。本名は志沢たけ。享年42
5代目 都々逸坊扇歌 - 後の俗に初代柳家つばめ。
6代目 都々逸坊扇歌 - 後の3代目柳亭燕枝。
7代目 都々逸坊扇歌 - 3代目富士松ぎん蝶が1952年に7代目扇歌を自称したが正式な襲名ではなかった為、特
例で関係者のみ許可された。
初代 都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか、文化元年(1804年、逆算) - 嘉永5年10月29日(1852年10月29日な
いし10月25日の説も))は、 江戸末期に一世を風靡した寄席芸人で都々逸の祖として知られる。 都々一坊 扇
歌とも表記される。
◆ 経歴
水戸領磯部村(常陸国、現在の茨城県常陸太田市磯部町)に、岡玄作という医師を父に、四人兄弟(男二人、
女二人)の末っ子として生まれる。幼名は子の松(ねのまつ)、のちに福次郎と改める。
七歳で痘瘡を患らった時に、治療医である父親が、医書の真偽を確かめようと痘瘡の病人には大毒といわれる
鰹を与え半失明となる。
17歳で「よしこの庵山歌」の名で門付の三味線を弾くようになる。
文政7年(文政8年)頃に江戸に出て、音曲噺で有名な落語家の初代船遊亭扇橋に弟子入りし、都々逸坊扇歌と
改名し、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍した。
その芸は、都々逸をはじめとした唄・
三味線だけでなく、「なぞ坊主」の異名を取るほど謎かけに長けていた。
やがて、江戸で一番の人気芸人と
なり、八丁四方では寄席の入りが悪くなるという意味で、仲間うちから「八丁あらし」とあだ名された。
天保
時代には上方にも出向き活躍。
世相を風刺した唄も沢山作ったが、晩年にはそれが幕府・大名批判とされ江戸を追放される。
1852年に府中(現在の茨城県石岡市)に嫁いだ姉の住まいにて病に伏し没す。
◆ 扇歌作の都々逸
都々逸は、当時上方を中心に流行していた「よしこの節」や名古屋で流行していた「名古屋節」を元に扇歌が
誰でも唄えるような曲調に仕上げたものと言われている。
扇歌作の唄はそれほど多くは残っていない。 以下は、代表的なもの。
親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
藪医者の息子ごときが芸人として大成できるわけがない、と叔父に江戸行きを止められたときに唄ったとされ
る。
わたしゃ奥山一もと桜 八重に咲く気はさらにない
たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡
願人坊主のようななりで三味線片手に流浪していた際に自分の姿を唄ったものともいわれる。
乗り出した船じゃわいな 沖の果てまで さあさやりましょ面舵取り舵ゃ 船頭さんの胸じゃいな
扇橋に弟子入りを志願した際にこの唄を唄い無事弟子入りがかなったとされる。
「船頭」は扇橋とかけている
。
磯部田圃のばらばら松は 風も吹かぬに木(気)がもめる
生まれ故郷の風景を唄ったもの。
諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の唄)
また、扇歌作の狂句(川柳)も残っている。
上は金 下は杭無し(食いなし) 吾妻橋
庶民はその日食うにも汲々しているのに政官の連中は金にあかした生活をしている様を吾妻橋にたとえて風刺
した。
真直に 行けば五条(五常)の 道に出る
気に入らぬ 節もあろうに 材木屋
通人で知られた千葉の材木屋の宴席に呼ばれた際に唄った唄。
耕すの 恩は忘れず 米の味
江戸で名を上げて故郷に帰った際に、両親や叔父の墓前で唄ったとされる。
◆ 門下
都橋、都山、歌川、歌蝶、都川、歌久寿等。
◆ 記念碑
都々逸坊扇歌歌碑 (常陸太田)生地の常陸太田市には、扇歌の碑がある。
碑には「磯辺田圃の..」の唄が刻まれている。
終焉の地の石岡市には、墓碑がある。
扇歌堂という供養堂も併設され、「たんと売れても..」の歌碑がある。
◆ その他
石川淳の『諸国畸人傳』に、都々一坊扇歌の伝記がある。
落語『包丁』のまくらとして、6代目三遊亭圓生は都々逸坊扇歌の話を取り上げることが多かった。
◆ 出典
諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社
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◆新内節(しんないぶし)は浄瑠璃の一流派。
宮古路豊後掾が江戸における豊後節禁止を受けて帰京した後、門弟の一人宮古路加賀太夫が延享二年(1745年)富士松薩摩を名のって富士松節(富士松派)を起こした。
さらに富士松薩摩の門弟から鶴賀若狭掾が出て鶴賀節(鶴賀派)を立てたが、門人の一人鶴賀新内が宝暦・明和年間(1751年 - 1771年)にその美声によって人気を得、新内節を創始した。
その後、「新内節」の名称が富士松・鶴賀両派を包摂するかたちで現在に至っている。
江戸浄瑠璃の例に漏れず、初期には歌舞伎の伴奏音楽として用いられたこともあるが、早く素浄瑠璃に変化し、さらに「流し」と呼ばれる独特の形式を生むにいたった。
吉原を中心に街頭を一枚一挺で流す新内節は、その情緒纏綿たる語り口、遊女の心情をきめこまかに描いた曲の内容から、江戸情緒を代表する庶民的な音楽として知られるところである。
その芸風は豊後節の影響をつよくうけ、また二代目鶴賀新内が美声によって知られた太夫であったこともあって、きわめて歌う要素のつよい浄瑠璃である。
曲目には、義太夫節から借りた段物、遊里の情景や心中を描いた端物、滑稽を中心とするチャリ物があるが、新内として特に有名なのは端物である。「蘭蝶」や「明烏夢泡雪」はその代表曲といっていい。
YouTube - 新内流し http://www.youtube.com/watch?v=x_2Sms_8AS4
新内流しⅡ http://www.youtube.com/watch?v=q0mcxT1W1w4&feature=related
新内流し http://www.youtube.com/watch?v=a9xgIHOb-KA&feature=related
新内流し 春日とよせい吉社中(みちびきまつり)
http://www.youtube.com/watch?v=quRCKlquqH8&feature=related
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◆新内(しんない)とは
むかしむかし宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)という人がおりました。
彼は始め、京都で一中節(いっちゅうぶし)を語っておりました。
静かな一中節では自分の感情を表現しきれなくなり、もっと感情を吐き出すことの出来るような、抑揚の激しいフシで語りたいと、悩みに悩み自分独自の芸風を作り、彼の芸風豊後節が出来ました。豊後節は江戸で大いに受け、よそものの豊後節が江戸の人気をさらったのですから風当たりも強く、その風吹き荒れてとうとう「豊後節禁止」のおふれが出て詮方なく豊後掾は京都へ帰る。しかし多くの弟子たちは江戸に執着を持ち、何とか江戸で芸渡世を続けたいと努力する。
結局、看板を変え独立して新しい流派を名乗りました。
「常盤津」 「富本」その富本から別れて「清元」が出来た。
その他に「富士松」というのもできました。
新内の元祖です。
富士松の一門で敦賀太夫というのが間もなく独立して鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を名乗る。
すなわち鶴賀派の元祖です。するとその一門に新内という人がいて、これが無類の美音です。伝説によれば「鼻に抜ける声」にたまらない味があって誰も彼もこの新内の芸風をまねたというのです。
新内は初期には歌舞伎に用いられていたが、後に歌舞伎から離れ、主として吉原を根城に行われ、いわゆる「流し」という街頭芸になっていった。
始めは各流派が流していたが、鶴賀新内が流しに参加し始めたころから「富士松」とも「鶴賀」とも言わないで新内流しが出来た。新内は貧しい階級の中で守り育てられてきたことも他にない特徴ではないか。
参考文献 同成社 定本 新内集より
新内節富士松延治太夫
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%BF%B7%C6%E2%CE%AE%A4%B7&ei=EUC-JP&fr=ush-jp_weather
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◆新内流し(しんないながし)
新内節演奏家の営業法の一つ。普通2人1組となって、普通三味線の手と、それより高い調子の三味線(上調子といいます。)この2丁の三味線で合奏し三味線を弾きながら、街頭を歩いていきます。
上調子の人は小さいバチで演奏します。この2人で、あの流しの音色は奏でられます。
よばれた時のみ座敷に上がって、または屋外に立って芸を聞かせる。また、流しをすることは、修行の一つでもあった。
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◆ 俳句 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%B3%E5%8F%A5
◆ 短歌 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E6%AD%8C
◆ 和歌 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C
江戸時代に至って色んな日本各地にあったモノが影響してできあがって言ったモノも有る。
戯れ唄や端歌 そのほかにも色んなモノが有ったようだ。