ジェンダー‐フリー
こんな言葉を言われて年寄りはハタと困った。
現代は昔と違い多国籍になり色んな国から色んなモノが入って来る。
マスメディアがいち早く取り入れるモノだから政治家も一般人も遅れてはならじと
それに飛びついて使用し始める。
英語などを普段から使い慣れているモノには非常に好都合。
特に政治家や経済人は喜んでいる。
アラサーという言葉を初めて聞いたときは
思わずコラサーと言ってしまった。
未だに判らないのがネガティブという言葉である。
何度聞いてもダメでその都度調べるのだけど身につかない。
確かに多国籍は大事な事かもしれない。
でも ここは日本である。
言語学者は言葉の発展は良いことだという。
それに追いつくモノは其れで良いだろう。
だが 追いつけないモノも居る。
世に言う落ちこぼれになってしまう。
こんなので良いのだろうか。
何処までの範囲にするかも問題だ。
より複雑な思考になっていくから。
さて本題に戻そう。
下記にこの言葉の記した置く。
「ジェンダー・フリー」の「フリー」について書かれているのには私も賛成。
どうも日本人が誤訳の誤解をして使い始めたようだ。
私は英語は大嫌いで勉強する気になれないからしないけど時々暇なときに何度か英語の番組を見たことがある。
他にも覚えていないけれども 外国に行って「フリー」などとは普段使わないようだ。
(日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。)
英語圏では ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。と書かれている。
元々日本人はこんな考えを持っていなかったように思える。
言葉というモノでもっと楽しんでいた。
今では絵文字などは当たり前に使う人が多いようだ。
私は余り好きではないので見ているだけにしている。
ギャル語というモノもあるそうだが 多様化するのは大いに良いモノ。
言語学者も歓迎する人が多いようだ。
デモ一つ考えて欲しいことは和歌や短歌や俳句などを詠んで判る様に一つの言葉に多機能を持たせるのが日本の本質ではないのかな。
これならば より沢山の言葉を作り出すよりも便利である。
なぜならばこの使い方はモウ完成しているのではないだろうか。
新しい手法は大事かもしれないが已に有るモノを無くすような事はしなくても良いと私は思う。
英語などの言葉を取り入れようとして誤用 誤解して使い外国人に何これと言われるよりも。
このあたりの現象は反日教育のねじれ現象では無いかと最近つくづく考える。
真っ当な まっすぐな考え持てない若者が増えているのもこの辺に原因は有るのでは無かろうか。
これ以上は専門家に聞いて見ないと判らないことだけど。
私の思考も間違っているのかもしれない。
私としてはモット シンプルにモノを考えて使った方が効率は良いのでは無いかと思う。
覚えるのにもさしてエネルギー使わなくても良いから。
江戸時代に和算という日本独特の数学があり老若男女お茶飲みながら解いていたという。
今の数学でも十分に通用する高等数学を。
神社に絵馬にして寄進されたモノが全国に三千枚以上 飾られていたり床板の補修に使っていたモノが出ている。
笠屋 伝兵衛 とか 桶屋 幾三郎とか 名前を連名にして書いてある。
昔の和算などはそれだけシンプルにして教えていたのだろう。
今では難し過ぎてついて行けない子供が沢山出ていると聞く。
教え方一つで変わるだろうし変な変更した教え方ではよい子は育たないのではないかな。
専門家はどう思うか一度聞いて見たいモノ。
アタマ良くないからいざとなると逃げ出してしまうかもしれないけど。
モット日本語を楽しんで欲しいな。
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フレッシュアイペディアより
1.ジェンダー‐フリー【gender free】
性による社会的、文化的差別をなくすこと。ジェンダーにとらわれず、それぞれの個性や資質に合った生き方を自分で決定できるようにしようという考え方。
2.ジェンダーフリー(gender-free)
社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれず、人それぞれの個性や資質に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという、「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」思想、および、この思想に基づいた運動を指す。『デイリー新語辞典』(三省堂)では、「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること。」と定義されている。主にフェミニスト達により主張されている。
※しかしながら、昨今この言葉をめぐって誤解や混乱が起こったことを踏まえて、男女共同参画局より地方公共団体に対して「この用語を使用しないことが適切」との事務連絡が出ている(詳細後述)。意味などを
ジェンダーフリー概念の成立
元々「gender-free」という言葉自体は、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが用いたとされている。しかし、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリー(ジェンダーの存在を意識しない)よりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」と述べて、「ジェンダーフリー」に賛成しないという文脈で使ったのである。故に、日本において「ジェンダーからの自由を目指す」思想や運動に「ジェンダーフリー」という語が用いられたのは、本来の意味と異なる誤用であった。
擁護派からは日本で「ジェンダーフリー」と呼ばれる運動の思想は、英語圏における「ジェンダー・イクォリティ(Gender Equality)」運動に近いとの主張が存在する。
(なお、フェミニストの山口智美は、『「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源』の中で以下のように述べている。
『私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。』)
ただし、欧米の女性学において「Gender」という用語とともに研究対象になったものは、まさに「男らしさ」「女らしさ」であり、このような性の差が差別の根本的原因という論であった。女性学(Women's studies)のさらに過激な展開として発達した「GenderStudies」の哲学的基礎は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」の標語である。特に1970年から1980年代に展開されたジェンダー論では、このような性差はあくまで文化的に構築された人為的なものであり、これを乗り越えて「Androgyny(両性、あるいは中性)」の人間性を確立することが、フェミニズムが対峙する問題の最終的な解決につながると真剣に議論されていた。ただし、この論は医学的事実と決定的に異なっていたため、1990年代に急速に崩壊する。
日本においてジェンダーフリーが使われたのは、既に時代遅れになっている第三波フェミニズムのジェンダー論を、男女共同参画の政策目的で輸入したときの和製英語化による。これに、日本の(旧来の)フェミニストが飛びついて時代遅れの論戦を張ったため批判が集中し、ジェンダーフリーとはジェンダーレスではないとの反論を張ったが、これは元々の本家のアメリカの女性学で前世紀に展開されたジェンダー論が何であったかを無視したご都合主義の論調である。ジェンダー論とは、元をたどればまさに男らしさや女らしさなどの性的特徴から自由になろうというものであった。これを日本の政府が「政策目的」で徴用したわけである。
「ジェンダーフリー」の擁護派は、「ジェンダーフリー」はフェミニズム運動の一環と捉えられることが多いが、フェミニストのすべてがジェンダーフリー賛同派というわけではない。男性に対する文化的圧力を問題とする「男性学」、「メンズリブ」、「マスキュリズム」などの活動を行う者たちの中にも、ジェンダーフリー運動に賛同する者は多い。また、「クィア」と呼ばれる、同性愛者などの性的マイノリティーに属する層の中にも賛同する者がいるが、彼らの中では、本来の「ジェンダーフリー」の意味から離れ、独自の政治的意味を付加する論も存在すと述べている。ただしこれはポスト・フェミニスト派(バックラッシュ)がジェンダー論に早くから批判を展開していたからである。ついでにメンズリブなどの集団は存在しないに等しい少数であり「ジェンダーフリー」運動の多様な集団からの賛同などの根拠にならない。ついでにクィア論(同性愛・両性愛)はあくまでもジェンダー論から発展した学問である。