お知らせ♪
ブログは諸事情があり
別のブログに書いて
ましたがまたこちらの
noririに戻り復帰します♪
(noririから麗歌に名前を変えます)
こちらは別ブログに
書いていたものを
少し手直ししたもの
になります
よろしくお願い致します☆
マイ・ストーリー
自分の生い立ちを記します。
19711005東京生まれ。
猪年、天秤座、二黒土星、
長女です。
海外によく行ってた
父親も日本にいたので
出産日は来てくれた。
当時美少女と呼ばれてた
大人氣の名馬の名前になる
予定でした。
周囲の反対があり別の名前
になりました。
そのあと、
千葉、静岡、千葉
と父の転勤により引越す。
2歳位の時に、
父の社長の友達で架橋の
留学生が家に遊びにきて
出入りしてたそうです。
私は学歴が大してありませんが、
この架橋の学生(今は60代
でしょう)に可愛がられ
てたと聞いたので、多分
その方が幼い私に対し中国語も
しゃべっててその影響で
中国語が話せるようになれた
のだと思います。
家で遊ぶより、木登りとか
走ったり外でどろんこになって
遊んでるのが大好きでした。
家ではお人形遊びとか
したことありません。
とにかく外で駆け回って
動き遊ぶことが大好きでした。
椎の実を取ってよく食べてました。
ノビルも好きでした。
4歳で、海で溺れて死にかけた
ことで死に対する恐怖がでて
きてしまいました。
父に助けられた事で今生きて
います。
親戚で女の子は一人だけ
だったので可愛がられ
ました。おじさんたちは
本当に父親のように楽しく
て優しくしてくれました。
祖母は元教師だったので
厳しかっだけど、料理も
できなかったけど食事の
栄養の事とか教えてくれて
健康に氣をつけたり野菜
好きになりました。
母方のおばあちゃんは
料理が上手でした。
小学校卒と言ってたけど
料理ができる事はそれ以上に
大事なことですね。
溺れて死にかけたのを機に
小学一年から水泳を習う。
金槌でなかった事かわかる。
小学4年にアメリカに行く
予定でしたが、工場が
できる計画が取り消され
千葉へ引越す。
ものすごく残念でした。
静岡から千葉へ転勤は
幼い私やとりわけ物凄く
おとなしい内氣な兄弟に
とっては酷な事でした。
田舎から都会へ引越した
ことのある人には良く
わかるとおもいます。
都会から田舎に行くと人氣者
になり注目されるが、その逆は
いじめの対象になる。
今思うと醜い島国日本の典型的
な悪い面だ。担任もグルで
本当に情けなかった。
思い出してもヘドが出そうになり
締め付けられるようなキモチ
になる。心臓の鼓動が早くなる。
静岡は本当にのんびりしてて
富士山がくっきり見えて、
お魚やお寿司がみかんが美味しく、
暖かな気候で友達も多く
心優しくて自然が多くて
楽しさしかありませんでした。
そんな静岡が大好きです。
高学年の時、それまで絵が
超下手クソな私を美術の
s先生によって変われました。
教えてくれる先生によって
こうも違うんだ、と大感動。
先生の理念や教え方によって
これだけのめりこめるんだと
達成感ややりがいを感じました。
先生の教え方や考え方が
ものすごく響き、合ってました。
s先生に出逢わなかったら
美術館なんで行くことは
なかったでしょう。
小学高学年中学で陸上部
高校で新体操部でした。
新体操に全力を捧げたので
勉強なんか殆どできませんでした。
全体力を使い果たしました。
したがって、
受けた大学短大はことごとく
全部落ちました。
御茶ノ水の専門学校に行くも
あまりにバイトが楽しすぎて
辞める。親には謝った。
最初に海外で行ったのは香港。
この時の感動は大きかったです。
何もかもが新鮮でした。
中国変換前の香港に行けて
嬉しかったですね。
まもなくして盲腸で入院。
バイトに明け暮れて
不規則な生活が
たたったのだと反省。
退院後、体調が変わり
ここから健康を意識する
ようになりました。
私にはなにもなくなったので、
友達にこれから化けると
言われた中国語かロシア語を
学びたいと思い学費の安さで
中国語を選択。
イギリスやアメリカ、スペイン
などの数週間の留学と中国の
一年の学費は大体同じだった
ので2、3週間の留学で私の頭
では話したり聞き取れたりなど
できないと感じ長期留学を選択。
まずは短期留学のために
社員だとすぐやめるのにも
どうかなと思い、
期間が決まってる派遣会社
に勤務。
お金貯めて年末年始に
10日間短期留学に行った。
殆どわかりませんでした。
中国語で知ってた単語は
カタカナで
オーアイニーだけ(笑)
(我爱你=あなたを愛してる)
この意味も漢字も当時は
知らなかった。
短期留学が良かったので、
翌年の秋に一年中国長期留学。
留学先は北京と上海。
北京では日本人留学生が多すぎて
日本語を喋る環境になってて
危機感を感じ、想定外だった
上海の大学に変えました。
本当に当時は大変でした。
上海では留学生一人になり、
進みは遅かったけど変えた
お陰で喋れるようになりました。
日本も含め今まで住んだところで、
一番きつかったのは上海でした。
迷いなく断言できます。
旅行と住むのは全く違います。
住むと良くわかる事はたくさん
あるものです。
水はマズい、洗濯物は3日は
乾かないとかありました。
上海人を理解するのも時間
掛かりました。
でも卒業する頃には住めば都
になりましたし良く理解
できました。
とこれが20代前半までの
ストーリーになります。
またその続きを書きます♫