エジプト旅行①カイロ市街(木) | 柴犬カン、福の日記

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柴犬カンと福、筆者の出来事、想い、政治、経済、文学、旅行、メンタルヘルス、映画、歴史、スポーツ、等について写真を載せながら日記を綴っていきます。柴犬カンは2018年12月に永眠しました。柴犬福が2020年4月7日夕方にわが家にやってきました。その成長記録。

 アフリカの地に降り立ったのは今回初めてで、ヨーロッパに近い、またアジアにも近い文明の交差点のエジプトなのであるが、アフリカであるのは間違いないのである。そこに住む人たちはエジプト人。話す言葉はアラビア語。肌の白い人から黒い人まで混在している。

 

 カイロは本当に発展途上国の街だなと感じる。人の多さと、ごみの多さと、活気である。イスタンブールとはまた違った雰囲気が立ち込めていた。エジプトでヨーロッパと関係が深かったのはアレキサンドリアで、この町は海に沈んでしまった。シーア派のファーティマ朝がカイロを中心に成立する。ちなみにファティマとはムハンマドの娘である。シーア派はムハンマドの血を受けた、12人のイマームたちが正統な後継者であるとする宗派である。私はそれ以上のことはちょっと分からない。ファーティマ朝の後を受けたのがアイユーブ朝で、その中心はサラディンである。十字軍から聖地エルサレムを守った男として有名で、カイロ市内にもムハンマドアリーモスクは、サラディンの作ったシタデル(要塞)の中に建てられている。アイユーブ朝の後にできたマムルーク朝はトルコ人の系列で、マムルーク朝の最大の功績はモンゴル帝国を追い払ったということである。先日も書いたが、かつて古代エジプトとヒッタイトが戦ったカデシュの戦いで、この戦いはその後ヒッタイトと古代エジプトの間で平和条約が結ばれたのだが、これが世界で初めての和平条約だと言われている。その同じ場所でマムルーク朝とモンゴル軍が戦ったのである。やがてマムルーク朝はインド洋の制海権をポルトガルは奪われ、台頭してきたオスマントルコに制圧され、19世紀にムハンマドアリー朝が成立するまで、オスマントルコがエジプトを支配することになるのである。

 

 カイロという街を見て一番驚いたのは、貧しそうな人ほど馬車や馬にまたがっている。お金持ちの人は車に乗ってるというイメージがある。今回もその写真をちょっと乗せてもらうことにした。日本では平安時代には牛車といって牛が人を乗せた車をひいた。日本では馬車ではなかった。日本は基本的に馬は戦争の道具であったり、時には伝令であったりしたが、その理由はおそらく山が多く、馬が登れない、また降りられないところが多かったのかもしれない。源義経が鵯越を駆け下りたのが、馬を使っていたということが、なるほどと思わせる。ちなみに義経の時代は、エジプトではアイユーブ朝のサラディンの時代だった。

 

 そしてカイロはゴミだらけ。豚の感染症が流行ったことからゴミの収集がうまくいかなくなったと言われている。その汚いゴミに口を突っ込んで馬たちが食べていた。体に悪いんじゃないかと心配になる。ニュースサイトによると、

「2009年に世界的大流行した新型インフルエンザが豚から感染すると伝えられると、国内にいる豚の全頭殺処分が行われ、輸入も禁じられた。エジプトでは政府ではなく主にキリスト教徒らが中心となって、民間企業などが豚の餌として生ゴミの収集を無償で行っていたが、豚が殺処分され生ゴミの収集を行わなくなった結果、カイロなどの都市部で生ゴミが多く放置される結果となり、深刻な衛生問題を抱える結果となってしまった。」宗教的理由もありそうだ。

 

 そしてナイル川。この川は本当にチグリスユーフラテス川と同じぐらい偉大な川である。水路が入り組んでおり、デルタ地帯である所から、どれがナイルかわからないが、とりあえずナイル川なのである。この砂漠を一本の巨大な川が流れることから、川の周辺2 km ぐらいが畑作地帯として潤され、そこは毎年の洪水によって肥沃で、場合によっては耕さなくても麦や綿が、そしてとうもろこしが、ナツメヤシが育つと言うことになって、ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と言ったが、それ以外の言葉全く見当たらない。

 

 砂漠と農地の境がはっきりしている。ここまでが農地で、豊かな地帯で、これより先は砂漠で、全く木も生えないし草も生えない。この分かれているその少し砂漠地帯に入ったところにピラミッドが作られている。またカイロからもピラミッドが見える。私が最終日にムハンマドアリーモスクの屋上からピラミッドの方を眺めると、かすかに見えるのである。空気が汚くて霞んでいたが、明らかに三角形のピラミッドが二つ見えたのである。古代人はこの景色をどう思っただろうか?偉大な文明が神によって与えられたとおそらく思ったに違いない。それぐらいエジプトの技術力、豊かさが現れている。

 

 ヨーロッパ人たちがピラミッドやスフィンクスを崇拝するのも分からなくはない。今回何よりすごいと思ったのはもうピラミッド以外はないのである。アヤソフィアも素晴らしいし、ボスフォラス海峡も美しかった。パルテノン神殿の夜景も美しかったが、何よりもピラミッドのその異様な風景は驚きを隠しきれなかった。しかし今回最初にピラミッドを作った王様のピラミッドを見学したが、それを一度見ると、なるほどクフ王のピラミッドは、それを大きく拡大したのだなと理解できるので、宇宙人か何かが作ったのではなく、メソポタミアの技術をエジプトに持ち込んだ石工のイムホテプたちが、それはフリーメーソンかもしれないが、エジプトで試行錯誤してピラミッドを作り、結果としてギザの三大ピラミッドという傑作を作り上げたのである。

 

 それから先日書いたオベリスクという記念碑。日本にも板碑というものがあるが、先端が三角形になっている。これがエジプト起源であって、欧米では各所に置かれたり、作られている。本家のエジプトのオベリスクは今回見れなかったが、イスタンブールの象形文字が彫られたトトメス3世のオベリスクは見ることができた。象形文字がはっきりと残っているのである。

 

 エジプトの人口は約9000万人。トルコが7500万人。ギリシャが1000万人。エジプトが一番人口が多い。ナイル川のおかげであろう。エジプトを団体でツアーをする場合には、基本的にツアーポリスという警察官が一人ツアーバスに乗るのである。この暑い中で背広を着てネクタイを締め、腰には拳銃を用意している。それくらい観光客に来てもらいたいわけである。外貨が欲しい。インバウンドである。これは今日本でも地震や台風などでインバウンドが減るのではと心配されているが、一番怖がられるのは、政治的不安定である。私が滞在したときも、ナイル川上流のエジプトコプト教(キリスト教の一派)の教会か何かが襲撃されたというニュースを聞いた。エジプトはのんびりとナイルの恵みの中で観光産業で潤ってもらいたいと思うのである。そしてイスラエルに近いこのエジプトの民は、アメリカをおそらく好きでないと思うのだが、ドルが最も信用のある通貨として使われている。もちろんユーロも、エジプトポンドも、日本円も使えるのだが、ドルが一番信用がある。

 

 このドルを発行している FRBを創立したのはユダヤ人達である。そしてその1ドル札にはピラミッドが刻まれているという皮肉があるのである。回り回ってエジプト文明がアメリカを支えているのかもしれない。

 

 カイロのモニュメントで一番有名なのはカイロタワーである。下の写真がそれである。でもカイロ市内からピラミッドがしっかり見えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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