「牛乳は、噛んで飲みなさい」
僕らの世代は、そう教えられた。
何度も、何度も。
教師にも、親にも、めずらしく朝礼台に立った保険の先生にも。
でも、誰も
「なぜ?」
は教えてくれなかった。
たぶん、今、当時に戻って、僕らを指導した人に、「なぜ?」をたずねても誰も答えられないと思う。
「冷たい水は、いっきに飲んでも、あまり意味はありません」
「水は、常温のものを70mLくらいずつとるのが、効果的です」
夏を迎えて、テレビでは熱中症対策をしばしば伝えてくれている。
そこには必ず「なぜ?」の理由つきだ。
一気飲みでは、すんなりと全部は吸収されないから。冷たいものも同じ理由。
今朝、5時間、掃除をした。
終えたとき、冷たい水…、と思った。汗を相当にかいていたし、からだも熱を帯びていてクールダウンを求めていた。
水道水じゃだめだ、と、冷蔵庫をあけ、寝かしてあるミネラルウォーターのボトルをとりだして、グラスに目いっぱい注いだ。
あ……。…、一気に飲んでも、冷たいものを飲んでも吸収が悪いんだっけ…。
最初のミネラルウォーターを口に含んだまま、どうしようかと考えてから、僕は口を上下に動かしてみた。
「牛乳は、噛んで飲みなさい」
その言葉がよみがえっていた。
冷水がやや温まっていく。それから、飲み込んだ。
これなら吸収もいいだろう。
昔のおとなたちは、指導されたことを、そのままうのみにしていた。
立場が上の人の言葉は間違っていないという盲目性が、多くのおとなを覆っていた。
災難なのは、そのままそれをしなくてはならない子どもたちだ。
「なぜ」を教えてもらえない。それですむ子どもはしあわせだった。でも僕は、釈然としない…。
とくに僕は、「なぜ?」の多い子どもだった。
学習塾の先生に、しばしば「なぜ?」を質問していた。
ある日、その先生が、たまたま塾を訪れていたOBに、僕のことを愚痴った。
OBは、僕と彼とのあいだくらいの年齢だった。
「こいつ、うるさいんだよ。わからないことがあると、その理由をいちいち、なんで?って聞くんだ。そのまま覚えりゃいいのに、ガキのくせに理屈っぽくて、さ」
今ならりっぱなパワハラだ。
塾の経営者が言っていいことでもないから、糾弾の材料にさえなる。
でも、当時は、たとえば僕がこのやりとりを親に告げたところで、何も起こらない。
先生がそんなことを言うわけがないでしょ、か
何か考えがあって、言ってるのよ、という反応がせいぜいだった。
そんな扱われ方を経験して育った僕らがおとなになったとき、僕らは、なるべく「なぜ」にこたえる世界をつくり上げたのだと思う。
それなのに、いまだに僕は、この答えを知らない。
「牛乳は、どうして噛んで飲むのか?」
自分が抱いた疑問は、誰からも答えてもらえずにおとなになってしまったらしい。
牛乳の飲み方より、考えなくてはならないことがたくさんできてきてしまったのも確かだけれど、本当は、その問いを重要に思ってなかっただけかもしれない。
あれ? 少し思い出しそうだ…。
牛乳は、冷たくないほうが味を感じるから?
だから噛んで、温度を常温に戻す…。
ちがったかな。