目の前で、万引きを目撃した。
顔見知りの中学生、だった。
ポケットにそれを入れた。コンビニの店内で。
入れ終わると、きょろきょろした。
僕は、彼のうしろに立って、背の低い彼ごしに、棚を覗きこんでいた。
そのときに、彼がそれをポケットに入れたのだ。
彼は自分のうしろに僕を発見して、とたんにうろたえた。
おいおい、目の前でこんなことしてくれるなよ、バカ野郎が、
と、僕は思ったけれど、今、思うと、そう思えてよかったのだろう。
もし彼が、とうとうとよどみない言い訳を始めたとしたら、僕はあんぐりとして、こいつは生まれついての犯罪者なのか、と感じただろうと思う。彼の反応はふつう、だった。
僕が24歳の頃の話だ。
前年に僕は就職して、ある会社に所属していた。
この頃にはまだ、仕事はそれほど忙しくなっていなかったから、僕は、会社の帰りに、かつて通っていた学習塾に寄るのを日課としていた。大学を卒業しても英語をものにできていないことに、釈然としない思いがあった。
学習塾の経営者に、英語の勉強をしたいから、塾があいている時間に、長机のスペースをひとり分貸してほしい、必要なときには後輩たちの勉強をみるから、とお願いして、ふたたびかつての学習塾を訪れるのが、日課になっていた。
この塾では、月謝を払っている生徒でも、後輩の勉強を手伝うのが伝統になっていたし、OBがふらりと立ち寄ることも多い。あまり見かけない顔のおとなが、生徒の隣に座っているのも日常の風景だったから、僕の存在も奇妙ではなかった。
民家の二階に下足を脱いであがる。狭い部屋に長机が置かれ、混んでいるときには肩をつぼめて、前の生徒と額を突き合わせるように勉強をする。親密感が増して、ちがう学年の人に対しても仲間意識を抱く生徒が多い。
僕が顔を出す夜の時間は、中学生と高校生の時間だった。曜日によってやってくる生徒の内容はちがう。中学1年生と高校1年生の日とか、中学2年生だけの夜とか。どの学年も週に二度ずつの割り当てがある。僕はほぼ毎日通っていたから、すべての生徒たちと顔見知りだった。
親しみを感じてくれる生徒も、気軽な関係になれない生徒もいる。身構えずに質問をしてくる生徒とは、やがて仲良くもなる。
万引きの目撃は、その学習塾からの帰宅途中でのことだ。
チョコレートがどうしても食べたかった。まだひとつの駅にひとつのコンビニがあるかないかの頃。たいていのスーパーは遅くても20時か21時には閉店してしまう時代だった。
僕は、チョコレートの棚に近づいて、少年の頭越しに物色を始めたところだった。
あれ、こいつ塾に来てる奴かな…。もうずいぶん遅い時間なのに…。
顔が見えないから、確信はもてない。
そんなことを思っていると、ビックリマンチョコか何かをポケットに入れた。
振り返った彼が僕を認めて、挙動が不審になった。
「おぅ、何してんだ?」
塾にいても、僕を親しんでくれている子ではない。僕からもちょっかいを出すことがほぼない関係だった。そんな相手への、とっさの言葉だった。
万引きをとがめたつもりは、毛頭ない。
でも、そうもとれる言葉になっていた。
彼は数センチ、背が伸びたみたいだった。スタジャンの背中がぴんとする。
「いや、別に。あ、先輩…。あの、お菓子を…」
「うん?」
「いや、別に…。あの先輩…」
何か言い淀んでいる。
「なに?」
「すいません、また今度、塾で」
彼はポケットを押さえながら、遠ざかっていく。
うしろ姿を見ながら、どうしたものか、と思った。くっついていって、レジに連れて行き、僕が代金を払おうか…。手首をねじり上げるわけにもいかないし…。
考えているうちに、彼はドアのところだ。
まあ、いいか…。
それを見て、あきらめてしまった。
俺、冷たいな…。
はっきりそう感じた。
学習塾での顔見知り程度の後輩だ。それに、ここのコンビニの店長も嫌いだし…。
自分でそう言い聞かせても、今、目の前で起こったことに、神経がとがっている。
店長は気づいていない。犯人は行ってしまった。
世間的には、現時点では何も起こっていないのと、同じだ。
取り残された僕だけが、ひとりで、相変わらずコンビニのなかに立ちすくんでいる。
ことの顛末に困り果てている。
落ち着こう、まず、外に出ることだ、と思った。
外に出た。歩く。
一秒、一秒、風に吹かれて頭が冷えていくけれど、頭の妙な興奮は残ったまま…。
家に帰っても、残像が残っていた。翌日も、へんな瞬間に思い出す。
いやなダメージだった。
僕はあのとき、どんな対応をとったらよかったのだろう?
24歳の「おとな」は、どうすべきだったのか?
こうあるべきという対応があったのではないか?
ビックリマンチョコがはやった、とても昔の話だ。
何年前のことだろう?
ずっと、本当にそれ以来ずっと…。
人の心は、どこでかぎ裂きをつくられ、引っかかり続けるか、わからない。