(承前)

 

昭和40年代。僕にとっては、幼稚園時から中学を卒業するまでの10年間。

 

おとなたちは、オリンピックから高度経済成長の時代を、がちゃがちゃと生き、町は変わり続けた。物価も上がり続けた。社会問題も驚くほどたくさんあった。「去年とちがうこと」「昨日とちがう今日」が当たり前だった。

 

なりふりかまわず前を見ていた時代のように思える。

人々が、戦争の記憶を振り払おうとしているかのようでもある。少なくとも僕は、親と同世代か年齢の上の人から、戦争の逸話をほぼ聞かされずに育った。

 

それでも、戦争は、僕を追いかけてきた。

世の中が忘れかけると、掘り起こさなければ、と考える人々も現れる。

 

知らない世代に、戦争の真実を伝えなくては、という使命感。

知らないからこそ、戦争のむごさや悲惨さを冷静に受け止めてくれるかも、という淡い期待さえ、一方にはあったのかもしれない。

 

僕に戦争を伝えた本が、2冊ある。

一冊は、父の持っていた本。

もう一冊は、『はだしのゲン』。

どちらも衝撃的だった。

 

5,6歳の頃、僕は父の本棚に大きな本を見つけた。

たぶんA4判のムック。カラーページが半分以上を占めていた。

子ども部屋に持っていき、開く。戦争のイラストが続いていた。

どのページにも、武器や、戦争のワンシーンが描かれている。

 

なぜこんなものがあるのだろう?

そう思いながら、ページを繰ってみる。

武器の絵には興味がない。すぐにページをめくる。

戦争の絵にも興味がない。いやむしろ、いやな気持ちに心を揺さぶられていた。

 

あるページで動けなくなった。見開きの、粗削りな線のイラストだったと思う。

 

日本軍兵士が、相手の戦車に向かって突進していく。持っているのは銃ではない。かたそうな大きな何かを腕に抱えていた。文章を読む。少しだけわかる。

爆弾、なの?

でも、なぜ兵隊さんが、爆弾を投げずに抱えているのか、混乱する。

 

日をおいて何度か、そのムックを開いた。子どもなんて、本をとじたとたんに次のことに気がいってしまう。でも、その日は、たまたま父がそばにいて、たずねてみた。

 

自分が死ぬことを承知で、爆弾を抱えて、戦車の下にもぐるのだという。

 

これも一緒だ、と父は、別のページを開いた。

僕がひとりで見たときにはスルーした絵だった。

 

「人間魚雷」の絵だよ、という。

人が爆弾を積んだカプセルのなかに入って、操縦しながら相手の船に体当たりをするんだ…。

 

なんのことかわからなかった。

 

だって、死んじゃうじゃない!? 

 

そうだよ。それでも自分の命を捨てて、相手をやっつけるんだ。

…かっこいい、とは思わなかった。おかしい、よ…。

父が嘘をつくはずもない。僕はひたすら混乱した。

 

父が、このムックを持っていたことにも混乱していた。父と戦争がどうしても結びつかない…。その思いとともに、2枚の絵がくっきりと頭に残った。

 

数年後、僕は、「特攻隊」の存在を知った。

「お国のために自爆した兵士」の話に、周囲の少年たちは、身を乗りだした。

飛行機など、特別な人が乗るものと思っていた世代だ。特別な乗り物で、国のために特別な死に方をする…。

かっこいい、とわきたって、あこがれを抱く者もいた。

 

「特攻隊」は、それからのちもテレビドラマや、マンガのテーマになった。

美化され、何度も映像化された。でも、「爆弾を抱えての自爆」や「人間魚雷」で最期を遂げた若者がいたことは、これまで口の端にさえのぼっていないように思う。

 

「はだしのゲン」の連載が、さらに数年後に「少年ジャンプ」で始まった。

僕は中学生になったばかりだった。

 

大嫌いだった。

陰鬱な話、悲惨な描写…。どうして、こんな戦争の話、原爆の話を、今になってしかもマンガにするんだ? 楽しくないじゃないか!

…でも目が離せない。読んでしまう。

それほどの衝撃だった。

 

爆心地付近で被爆した人々を、主人公のゲンが目にする。

どろどろにとけて、指先やあご先から地面へと垂れ下がっている皮膚、そのあいだからのぞいている目。

 

自分の姿がどうなっているのかを理解せずに、それでもどこかを目指して歩く人々。倒れて、水、水…と手を伸ばしている被爆者…。死者の山。死にゆく人々…。

凄惨きわまりなかった。

 

思春期までのあいだ、僕はそんなふうに戦争に囲まれていた。

 

ベトナム戦争も、あった。

遠いベトナムの話なのに、どうして日本で毎日、こんなにニュースを流すのだろう、と不思議だった。

 

一方では、団塊の世代が、安保反対・戦争反対と言いながら、警察や機動隊に火炎瓶を投げていた。わけがわからなかった。理解できない暴力、理解できない戦争…。

 

「戦争を知らない子どもたち」を作曲した世代よりずっと下なのに、僕は、つねに戦争を意識していた。

 

21世紀になったばかりの頃だろうか、それまで原爆資料館に展示されていた『はだしのゲン』が、撤去された。

アメリカ人や外国人観光客も増えてきたし、自国のそんな悲惨な歴史を人目にさらすのはまずい、というのが、理由だったらしい。

 

また、混乱した。

『はだしのゲン』は、外国人に見せてはまずいもの、かな? 

なぜ?

 

「土地」としての戦争の記憶、を持つ地域に暮らす人々と、戦争被害を受けなかった「土地」では、戦争への思いはかなり温度差があると思う。

広島、長崎、沖縄…。東京も、ひどい被害を受けて焼け野原になった。空襲は60回を超え、なかでも東京大空襲では、10万人以上の死者が出たという。

 

親や親より上の世代は、僕に戦争を語らなかった。

1970年の東京、あるいは僕の周辺では、戦争は身近な話題ではなかった。

 

世間話のように、「あの頃はね」と語れるほど軽い話題でもなかったのだろう。

東京の人は、じつは心に深傷(ふかで)を負っていたのだと思う。

 

子どもの頃、戦争の話を見たり聞いたりすると

「僕が生まれる15年も昔の、古臭い話をされても…」

と拒否反応を示していたのに、今は、何十年も昔の親世代の心に思いをはせている。