不思議なこと。

 

僕の子どもの頃には、戦争経験者がたくさんいたはずだ。

それなのに、僕は、戦争の経験談をおとなたちからほとんど聞いたことがない。

 

東京のおとなたちは、意識的にその話題を避けていたのかも、と思う。

父も母も、親戚も、ほとんど口にしなかった。1970年前後のことだ。

 

ドラマには、のべつまくなしに「戦争の記憶」をひきずるシーンが登場していた。

戦後、十数年間、戦争から婚約者が戻るのをけなげに待ち続けている女性の話、父親を写真の姿でしか知らずに育った少女の話、戦争中に一旗揚げると満州に旅立って以来消息不明だったおじの話。戦争体験をもとにした落語もたくさんあった。

 

ワイドショウや報道番組からも、「戦争」を定期的に耳にした。

子どもだから見ようともしなかったけれど、この頃の討論番組では、「第二次世界大戦によってもたらされたものと、それへの反省と今後の日本のあるべき姿」みたいな議論が、頻繁に行われていたのだろう。

 

「傷痍軍人」ののぼりを立てて、白い装束で道端に座っている人々を意識したのは、12歳の頃だったと思う。もっと前から目にはしていたと思う。でも、ただの物乞いと認識して、スルーしていたのだろう。物乞いする人が普通にいるほど、日本はまだ貧しかった。僕らの世代は、あまり貧しさを肌身に感じてはいなかったと思うけれど。

 

「傷痍軍人」は、むしろ「不思議さと、見た目の怖さ」を感じさせる存在だった。

 

あの人たちはなんだろう? 

のぼりに書かれた「傷」と「軍人」の文字から、推察はできた。

でも、戦後27年もたって、なぜ兵隊さんがここにいるの?

なんで白装束なの? どこか「死」を感じて怖かった。

 

口の悪い大人は、戦争で働けなくなったように見せかけている、ただの「乞食」だよ。あの姿なら、いろんな人が施してくれると思ってるんだ、と言った。

 

でも、彼らは腕がなかったり、ひざ下がなくなっていたりした。

その姿でアコーディオンを弾いたりもした。音がすれば、当然、僕はふりむく。そして、彼らを認め、意識した。

 

本当に戦争で失くしちゃったのかな。そういう不運な人は、道端に座って物乞いをしなくちゃいけないの? 自分のせいなの? と、それも不思議だった。

 

ちょうどそんな頃、元日本兵の横井庄一さんが1972年にグアム島で発見され、さらに2年後に小野田寛郎さんがルバング島で発見された。

どちらの方も、戦争でその地に派遣されてからずっと、その地で戦い、その地に潜んでいた。終戦から28年めと30年めまで。とても長い。

人が、そんなに長い時間を、ひっそりと生きていられるなんて、僕には理解できなかった。何か騙されているように感じた。

 

僕が生まれたのは、1960年。

1964年には東京オリンピックが開催され、開会式をテレビで見ていた記憶もある。

 

東京では、突貫工事が日々繰り返されて、幹線道路だけでなく、ごく狭い「歩道のない道」さえ、砂利や建材を積んだ大型ダンプが猛スピードで走っていた。

当時は、少し広めの道でも、「車道より一段上がった歩道」など、ほぼなかった。

歩行者は、白い路肩線の内側を肩をすぼめて歩く。すれすれを車が抜けていく…。歩くことさえ緊張する。

 

オリンピックのために必要なものをつくるのだから…。復興のためだ、という意識が強く、車優先だった。オリンピックが終わると高度経済成長。開発は続き、1970年には、年間の交通事故死者数が16,000人を超えていた。

 

排気ガスが空を覆い、東京の川には「ヘドロ」が堆積、川面はごみで埋め尽くされて、異様なにおいを放っていた。道端に通された「どぶ」は、化学物質の色に染まっていた。「公害」という言葉が、毎日のように新聞紙面をにぎわした。

昭和の東京はよかったなんて、この時代の東京の暮らしの実情を知らないか、記憶を改ざんしてきれいな記憶だけをたどる人々の、ノスタルジーでしかないと思う。

 

「もはや戦後ではない」

ニュースはしばしばそう報じていた。おとなたちも、そう思っているようだった。

 

へんなの…。この言葉を聞いたとき、僕は反射的にそう思った。

 

「「戦後ではない」って、当たり前じゃん。だって25年も前のことなのに…。終戦が1945年なんだから、「戦後なんて時代」は、とっくの昔に終わってるはずだよね…。戦争について話す人なんて、まわりにほとんどいないよ」

 

僕が生まれる15年も前に戦争は終わっていた、

生まれた瞬間でさえ、大昔の話だった。

そしてこのとき、僕はまだ10年しか生きていなかった。

10歳の少年にとって、25年前の戦争の話なんて、関係のないこと、古臭いこと、だった。

 

25歳の頃、もう25年も生きてきたのか、と思った。そのときに初めて、25年の時の流れを、少しだけ理解できたように思えた。とくに高校以降はあっという間の10年だった。

僕が10歳のときのおとなたちにとって、戦争は「この前のこと」だったのだろう。

 

それなのに、おとなたちは、戦争について語ろうとはしなかった。

父と母は、終戦時に9歳と8歳だ。戦争体験といえば、それぞれ熊谷と宮城に縁故疎開をしたことがほとんどを占める。疎開については、聞いたことがあった。

 

母が話す疎開先での風景は、戦争とは無縁で牧歌的だった。

それ以前の、東京での灯火管制のことや、空襲警報が鳴ったときに急いで灯りを消し防災頭巾をかぶること、どんな心持ちがしたかや、飛行機に追いかけられた恐怖についても、母は話してくれた。でも、それで全部だった。

 

南方で戦った先生が、体験談に授業をつぶすことが、一度か二度、あった。上空からの機銃掃射にあって、うしろにいた戦友が斃れたこと、森のなかを這うように移動したことなどだ。

 

でも、そうした「語り」は、ごくまれなことだった。

多くの人は、戦争について沈黙を守っていたと思う。

 

あれは悪い夢だった。

今は、目の前が開けている。

希望が見える今を生きたい。

 

発展していく日本。一緒にその流れに乗れば、戦争体験を忘れられる。

ふつうの人々は、そう思っているようだった。

 

一方で、報道関係者や芸術家は、戦争への反省を忘れたとたんに、また軍国主義に戻ってしまうかもしれないという強い懸念を抱えていた。クリエイタたちは、その自戒を作品に込めた。報道する人々は、何かの事件や社会状況を、すぐに「戦争」になぞらえて、伝えた。

 

学校の先生の授業にも、根底には同様の思いがあったのかもしれない。

戦争の傷跡が、世の中にはっきりと残っていた。それは、確かだ、

 

でも、普通の人は、子どもたちにも戦争体験を伝えることを控え、思い出すことをいやがっていたのだろう。

 

3月10日の大空襲で多くの犠牲者を出した東京では、とくに、心の底に記憶を沈めようという意識が強かったのかもしれない。

 

(つづく)