薬局は、東京駅から10分くらいの商店街の一角にあった。

「2の日」には縁日も立つけれど、ふだんの昼は、住民の生活がメインの商店街だ。幹線道路からは一本はずれていたのか、工事のけたまたしさは、それほど感じなかったように思う。

 

ただ、「危ないから、通りのむこうには行っちゃだめよ」と言われるほどには広い通りで、交通量もそこそこある。交差点のはす向かいに、お気に入りのおねえさんのいる靴屋さんがあったけれど、ひとりで信号をわたるなときつく言われていたので、母と一緒のときでないと、ほぼ会いに行けなかった。もちろんこっそり出かけていたけれど。

 

薬局の建物に入ると、しんとした空気が広がる。

薬局の建物は、一階が店舗、中二階の共用スペースには、簡単なソファと椅子とテーブルが置かれていた。また、店舗のようすが一望できる位置に、やや出っ張り気味に調剤室がしつらえられ、ふたつの部屋のあいだに二階への階段があった。

 

店舗の中央の天井には、映画「カサブランカ」に出てくるような巨大な羽根の扇風機が据えられて、ゆっくりと回っていた。

 

家にある扇風機は、すばやく回転して風を送ってくれるのに、なぜ風も感じさせないこんなものを回しているんだろう、と不思議で、印象に残っている。今なら、空気をかき混ぜるのが、おもな目的だったのだろうと、推測できるけれど。

 

二階には、伯父一家の寝室と、ダイニングキッチンとリビングがあった。

父の兄弟は、ひとりも飲める人がいないのに、たまにワインが用意されていた。

でも、僕には、めずらしい紫色のジュースとしか思えない。ふだんは、米屋が配達してくる「プラッシー」を与えられていたけれど、みんながワインを飲む場に初めて立ち会ったときには、僕も飲みたい、と、強い衝動にかられた。もちろん飲ませてもらえない。

 

二度目に飲みたい、と言ったときには、「ぶどうジュース」を用意してくれていて、すぐに出てきた。ついに、紫色を飲むことができて大満足。それきり何も言わなくなったと思う。

当時は「ワイン」とは言わずに「ぶどう酒」、「ぶどうジュース」も「ぶどう汁」だったと思う。

 

二階への階段を登りきると、半間ほどのフローリングのスペースのむこうに、扉に閉ざされた空間があった。扉のむこうには、三階へ通じる階段がある、と聞かされていた。

 

「三階には行っちゃだめよ」

きつく言われていたけれど、あるとき上に来いよと誘われた。たぶん石田さんかキヨさんだろう。

「行っちゃダメだって言われてるもん。行っちゃいけないんだよ」

 

抵抗する僕の顔を、きょとんとした目で見てから、その人は、あはははと笑って、こう言った。

「いいんだよ、俺たちの部屋があるんだよ。俺たちのじゃまをするな、って意味で、行っちゃダメって言われたんだと思うよ。暮らしてる俺が誘っているんだから、大丈夫だ」

そうして、僕は初めて、「あかずの扉」のむこうの世界に足を踏み入れた。

 

扉を開くと、暗いなかに急な階段がそびえていた。上まで登ると、左側は、すぐに物干し台への出口になっていた。ほかのスペースは、廊下と住み込みの人たちの部屋。何部屋あったのだろう。

 

初めて三階に上がったそのとき、どこかの部屋に入ったにちがいないのだけれど、僕はまるで覚えていない。暗さと静けさに圧倒されたうえに、太陽が降り注ぐ物干し台が暗い廊下の向こうにくっきりと見えて、裏腹のコントラストをつくっていたのも、非現実的な感じだった。

 

 

父たち兄弟が店をたたんだあとも、キヨさんにはよく遊んでもらった。

キヨさんは、海とヨットが好きで、手作りをしたというヨットに乗せてもらったこともある。映画「ビッグウェンズデー」に、弟ともども連れて行ってもらったこともある。

 

映画を見る前に、居酒屋でビールを飲んだ。弟は14歳。でも、母の血を引いて飲める。16歳の僕は父の体質を受け継ぎ、ビールのキャップ一杯で酔っ払った感じになり始めてしまう。

 

ビールなんて飲んだら、映画の内容なんてわからなくなっちゃうよ、寝ちゃうかもしれないと心配だったのに、そのときの居酒屋の風景と、ジョッキとともに出てきたそらまめのことは、よく覚えている。

 

やはり寝てしまった。でも、伝説の大波にむかってサーフボードをくぐらせていくシーンこそ見ものの映画だ。ストーリがわからなくても、その爽快なシーンには食い入って見ていた。

 

 

「あの薬局での日々は、本当に楽しかった」

40歳を過ぎてから、沖縄を何度か訪れるようになったとき、石田さんは、感慨深げにそう言った。石田さんの自宅は、薬局の立地に似たような場所にあった。国際通りから一本入った場所だ。

 

伯父と父は4歳ちがい、父と石田さんは10歳ほどしか年齢が変わらない。全員が若かった。

父たちの生まれ育った場所でもあるうえに、両親ともすでに亡くなっていたから、父や伯父の友人も気兼ねなく薬局をたずねてきて、夜ごと、パーティのような賑わいだったという。石田さんのような住み込みの従業員も区別なく、夜の集いを楽しんでいた。

「まるで都会のまんなかのサロンみたいだったよ」

 

話を聞いて、僕もその場にいたかったな、と少しうらやんだ。

石田さんやキヨさんにとって、東京での代えがたい時間だったことが伝わってくる。うれしかった。

 

沖縄を訪れる僕たち兄弟や従妹が、歓待してもらえたのも、おふたりのお人柄と同時に、そうした充実感を、少しでも返してくれようとしているように、僕には思えた。