1987年1月、「ソ連」のモスクワ空港のロビーで90分ほどを過ごした。

 

当時のソ連の書記長は、1985年に就任したゴルバチョフ。ソ連の書記長らしくない柔和なムードが印象的で、「ゴルビー」と呼ばれ親しまれた。夫人が築地の和菓子屋を訪れただけでもニュースになるような人だった。

彼が、ペレストロイカを提唱したのは、就任後まもなくだったというが、この1987年1月には、ソ連はまだソ連のままで、「疲弊した共産主義に民主主義を取り入れて活性化してゆく」を目指したペレストロイカなど、まだ「概念」に過ぎなかった。

 

あとで知ったことだが、数か月後に開かれた「ロシア革命70周年記念の軍事パレード」に「民主主義 平和 ペレストロイカ 加速」と書かれた大きな看板が立てかけられた。それをきっかけにペレストロイカは本格化したという。テレビ中継で、看板が大映しにされ、アナウンサーがペレストロイカを周知して、人々の心に「改革」が芽生え始めたという。

 

でも、このときのモスクワ空港は、まだ明らかに、ソ連だった。共産主義国の代表で、アメリカの冷戦の相手。第二次大戦終結直前に、北方領土をとってしまった国。

これから数年のうちに、ベルリンの壁が崩壊することも、ソ連が解体してしまうことも、普通の日本人にとっては頭をかすめる程度の与太話でしかなかったにちがいない。

 

その10時間くらい前に、僕の乗った飛行機は、成田空港を離陸した。

国内線も含めて、初めて乗る飛行機。

アエロフロート、ソビエト航空の、イリューシン。

成田発、ロンドン・ヒースロー空港行き。所要時間約15時間。

いくら1987年の海外キャリアであったとしても、日本発のフライトなら、離陸前には日本語のアナウンスが流れそうなものだが、アエロフロートは成田にいるあいだでさえロシア語と英語のアナウンスのみだったと思う。

 

離陸前から言葉がわからない。これからイギリスに英語の勉強に向かうというのに、少しは聞き取れるはずじゃなかったのか? 不安ばかりが募っていく…。もともと「英語耳」はいいほうじゃないけれど、ここまでわからないなんて…。

 

だいたいとっかかりがない。何についてのアナウンスかわかれば、推測がつくけれど、搭乗初体験では、飛行機内のアナウンスなどまったく聞いたこともないし、フライト用語ももちろん知らない。耳にひっかかる単語はごくわずかだから、ほとんどの内容は、推測さえできない。

 

「ただの給油ですよ」

アエロフロートが、やがてモスクワへの着陸態勢に入った頃に、席が隣り合った、10歳ほど年長の日本人男性が教えてくれた。英語がわかるんですか? とたずねると、ええ、これくらいは。妻がイギリス人で、何度も行ったり来たりしていますからね、と答える。

へえ、と思った。初めて飛行機に乗り、隣に座った日本人が国際結婚をしていることが印象的だった。僕は本当にこれから海外へ行くのだ…。実感がわいた。

 

千昌夫など国際結婚をしている有名人はいた。でも、それはそういう人がいる、というだけの情報。外国人の数が、東京でさえ圧倒的に少なかったこの時代に、すぐそばに「僕が思い描く国際結婚」のカップルなど、まずいなかった。

外国人といっても、たいていは中国系の人や韓国系の人だった。そして、彼らを合わせても、外国人比率は、多くても1万人に一人以下だったろう。

髪の毛の色で言えば、スキンヘッドと白髪を除いたら、日本に住む人の99%以上は地毛は黒髪だった。基地のそばにでも住んでいる、あるいは特別な環境にでもいないかぎり、髪の毛の黒くない外国人と日本人のカップルなど、めったに知り合えなかったと思う。

 

海外旅行そのものは、少しずつ一般化していた。

僕が小学生の頃には、もっとも身近な海外旅行は、「サザエさん」か「いじわるばあさん」のなかの「長谷川町子漫遊記」みたいな特集ページだった。作者の長谷川さんが、欧米のどこかへの旅行記を掲載していた。

 

それから十数年がたった頃には、大学を卒業する人の100人に一人くらいは「卒業旅行」としてアメリカやヨーロッパに出向くようになってはいたと思う。それでも、普通の学生からの忌憚のない言葉は、おそらくこうだった。

「学生なのに、そんな高価な旅行に行くの? バイトだけでよく貯められたね」

 

1987年は、卒業から4年がたっていた。海外旅行はさらに身近になっていたけれど、エアチケットが安くなるのには、もう少しかかった。まだHISが旅行業界を席巻していなかったのだ。

 

僕がようやく探し当てロンドン往復航空券は、27万円。なお、この頃の、ロンドン往復航空券の正規料金は、エコノミーで68万円だったと聞いたことがある。