1987年の「雪の早明戦」を初めて見た。

35年間、縁がなかった。

 

1980年代、僕は、明治大学のラグビーの試合を本当に頻繁に見ていたけれど、この試合はそのときのスタジアムでも、ビデオでも見るチャンスがなかった。

 

僕のラグビー観戦の歴史は、5歳の頃に始まる。

その後、5歳の頃のように真剣にラグビーを見るようになったのは、1980年代前半に明治大学の試合を見るようになってからだ。

 

初めは、秋から1月にかけて大学の定期戦を見るようになり、やがてジャパンのテストマッチがあると、季節に関係なく、桜のジャージも追いかけるようになった。

 

1987年、11月から1月にかけて、僕はロンドンに滞在していて、日本の大学ラグビーを見るチャンスを失っていた。

インターネットのない時代、日本との接点は、たまに見るBBCの国際ニュースと、数人の日本人(通っている日本人は何十人もいた)、そして、日本からの手紙だけだった。

 

よく手紙をくれるひとりに「ラグビーの相棒」がいた。

大学時代からのクラスメイトで、皆でよく遊んでいた。大学を卒業してから、何かのきっかけで、毎週のようにラグビーを見に行くようになった。

 

「早明戦にいってきたの。雪の早明戦だった…。記憶に残る試合だった」

というようなことが書いてあった。彼女の文章はいつももっと気が利いていたから、このときの手紙もそうだったと思う。でも、35年も前にもらった手紙の文面は、さすがに思い出せない。思い出せるほうが、少し怖い感じもするし。

 

「雪の早明戦」というコピーだけが、頭にはりついた。

僕も見たかった、と強烈に思った。

 

早明戦の定期戦は、12月の第一週の日曜日に行われる。12月1日から7日のあいだ。

35年前が、いくら今より寒かったとはいえ、12月の1週目などに、東京に雪が降ることはめったになかった。

 

1月のラグビーの日本選手権(社会人一位と大学選手権優勝校による試合)や、2月に開催されるオール早慶明というイベント的な試合では、雪が降ることはよくあった。

「ラグビーはこごえながら見るもの」だったし12月でも寒さの思い出が多いけれど、「12月の雪の早明戦」は、戦後初、くらいのできごとだったと、のちのち耳にしたような気がする。

 

まず頭に浮かんだのは、色彩だった。

 

緑の芝生と、白い雪。

雪が降りしきるなかに、紫紺のストライプと、海老茶のジャージがかけめぐっている…。

あるいは、雪はやみ、溶けて、ぐちゃぐちゃの泥の入り混じったぬかるみとなっていたのだろうか、ジャージが土色にそまった試合だったのかも…。

 

その試合を、ビデオで見た。

 

「35年前のラグビー」だった。

 

体格は、今の大学生ラガーパースンと比べたら、まるで高校生のようだ。

この35年で、どれほどフィットネスに関する科学が発達したかの証明だ。

でかい、とうなるほどだった同志社の大八木でさえ、今の大学生のなかでは、アベレージをやや超える程度の体格だろう。

 

選手の髪形も、今のように「きめっきめ」ではない。今のラグビーの試合は、ツーブロックやら、いまどきのファッショナブルな髪形のカタログのようだけれど、当時は、耳の保護のためもあったのか、耳が隠れる無造作ヘア、が主流だった。

体格的にも、無造作ヘア的にも、彼らは、一般学生との見分けがつきづらかったと思う。

 

雪の早明戦。35年前。

そこで走っているバックスの選手たちは、今の「細マッチョ」的なアスリートの体格に等しい。

スクラムを組むフォワードでさえ、「太った野球選手」程度の印象だ。

 

ワールドカップで目にした、鍛えぬきビルドアップした代表選手から見たら、まるで子どものようだ。当時の早明戦の選手が、今のジャパンとスクラムを組んだら、一瞬で支配され攻め込まれてしまうか、圧に負けて、スクラムを崩してしまうだろう。タックルを受けたら、その強さに気を失ってしまうかもしれない、とさえ感じる。

 

35年前、大学ラグビーは、社会人ラグビーとは大きく水をあけられていた。人気では圧倒的に社会人を上回っていたけれど、「今年は強い!」と評判を得た大学日本一のチームが、日本選手権ではたいてい社会人の足もとにも及ばない。

 

その社会人のチームにしても、オフロードパスなどほとんど誰も身につけていなかった。「オフロードでパスを出す」ことなど、アイデアにもなかったかもしれない。パスは、きちんと相手を確認して出す、が一般的だったように思う。

今のラグビーは、当時のラグビーファンからしたら、夢のようなステージにある。

 

ビデオを見ていて、ああ、昔の大学ラグビーだな、と思った。

大学からラグビーを始めても、フィットネス的に間に合いそうだし、センスがあれば、エリート校以外ではレギュラーだってとれた時代だと思う。

 

学生は、きびきびと動くべし、という暗黙のルールもあったと思う。

ノックオンがあったあと、5秒後にはスクラムが組めている。レフェリーが何も言わなくても、両チームがすでに肩をぶつけるところまでかたちができあがっている。

 

今のように、レフェリーと両チームが会話を通して試合をつくっていく感じも、この試合には、ない。レフェリーが一方的に試合をコントロールしている。

 

ラインアウトも、もう投げているの? という素早さだ。

トライをとるのが醍醐味のラグビーなのに、なぜかすぐにペナルティゴールを狙う。

 

ルールもだいぶちがう。トライの得点は4点。ラインアウトは今のように選手を持ち上げるのは反則だったから、ボールを投げ入れる側が圧倒的に有利、というわけではなかった。明治はラインアウトが伝統的にへたくそで、ボールを入れても、ボールキープはせいぜい半分だった。

 

きびきびしているといえば耳あたりがいいが、どこか時間をかけないこと、ていねいでないことが、「学生らしい」という言葉でからめとられているようだ。

素早くやるばかりで、ひとつひとつのプレーに正確さはないから、今、見ると、プレーとしては雑だし、ものたりなく見える。

 

でも、早明戦への闘志はものすごく強い。

だから、つい試合に引き込まれる。観客も、プレイヤーのその姿勢に熱狂をあおられる。

 

雪の早明戦は、前半の15分以降は、明治のミスが目立ち、明治からしたら凡戦の様相を呈していた。それでも、グラウンドコンディションの悪さも手伝って、攻めこむ、防ぎきる、の繰り返しが、ロウスコアマッチに繋がっていたから、はらはら感が強く、前のめりに観戦してしまう。

 

前半は7-7の同点で終了。後半開始すぐに早稲田がペナルティゴールで3点リードをしたまま、時間が過ぎ、最後の10分(実際にはアディショナルタイムが5分くらいあったから15分か…)にさしかかった。

 

雪の早明戦、といまだにもてはやされる理由は、ここにあった。

攻め込む明治、ゴール前で防ぐ早稲田。早明戦らしい繰り返しだ。

この前年までの2年間は、明治が1点差、2点差で早稲田に続けて勝っていて、対抗戦グループ2連覇を成し遂げていた。この試合に勝てば、3連覇だ。

 

ラスト2分の頃、早稲田のペナルティで、明治はペナルティキックのチャンスを、ほぼゴール正面で得た。この日、明治のキッカーは不調だった。それでも、この位置でのPGははずすはずはなかった。入れば同点だ。

試合開始前に、同点で終わった場合の優勝の行方、などが話し合われたはずだけれど、そこでどんな「決め」が行われたかは、僕は知らないし、アナウンサーも語らない。

 

明治は、早稲田に負けたくなかった。優勝云々を別にしても、だ。

でも、きっとそれ以上に、明治は勝ちたかった。

 

明治はPGを狙わずに、トライを狙い続けた。

結局、トライはとれずにノーサイド。明治は負けた。

 

負けたけれど、雪が消えた泥まみれのなかでトライを狙い続けた姿勢は、人々の記憶に強く訴えかけた。それが、「雪の早明戦」だった。

 

「ラグビー選手はアマチュアでなくてはならない」

 

ラグビーにはアマチュアリズムが当時、強く求められていた。

大学のラグビーパースンの当時の体格も、その具現だと思う。

 

このあと、いろいろなことがら、とくにアスリートの世界に「プロ化」の波が押し寄せて、カネと科学の力が入り込むようになっていく。

この早明戦の年に始まったワールドカップラグビーでも、日本企業にカネを出してもらうために、当時は世界レベルに届かない実力のジャパンが、出場できていた。

そんな世界の風潮のなか、日本ラグビーはアマチュアリズムの堅持、を強く標榜していた。

 

フラストレーションを感じながらもプロ化の波をくぐって、スポーツは、いまやアートになった。

今のラグビーは、素晴らしいと思う。

ワールドカップのスコットランド戦をスタジアムで見たけれど、別世界のできごとのようだった。

スキルも、スタジアムの雰囲気も、想像をはるかに超えていた。

 

それでも。

35年前の大学ラグビーも、こうしてみると、好きだなあ。

勝つこと至上主義でもない。

ヘタだし、学生のスポーツでしかないけれど、それはそれでいいじゃん、と思えるものがそこにはあった。

すてきな試合だった。

5歳の頃にテレビで見たどろんこの人たちの姿、を思い出した。

 

ついでにちょっと残念なことも思い出してしまったけれど…。

せっかくだから書いておくけれど、本当に残念だ。

 

それは、当時のNHKのアナウンサーの、ラグビー中継への「いい加減さ」だ。

 

当時から、彼らのあまりの知識のなさと、いい加減な実況に、僕はしばしば腹を立てていた。ボリュームを絞って(当時は「ミュート」という機能はなかった)、映像だけを見ていたことも、あった。

 

アナウンサーが無知なぶん、解説者が、視聴者にわかるように解説しようと頑張る。

でも、反則さえ理解できていないアナウンサーは、解説者の言葉を理解できずに、あるいは、それを視聴者に理解してもらうことを大切とは考えずに、スルーしてしまう。

 

BSもない時代だった(もうNHKはやってたのかな)。

どうせ1年に1度か2度しかアナウンスをしないラグビーだ、知識を増やしたところで…、という姿勢が見え隠れする。それなのに、何年たっても、ラグビー中継は同じアナウンサー二人が担当し、どちらの理解も深まらないままだった…。

 

こんなやつらを担当にするなよ、と僕は思った。ほかのラグビーファンはどうだったのだろう?

 

アナウンサーサイドでは、ラグビーなんてマイナーな競技を中継するためにスポーツアナを目指したわけじゃない、というような思いだったのだろうか。

 

そんなアナウンスでテレビ中継を見ていた、大学生になってからのラグビーファンたちの多くは、ルールを理解できないまま、卒業してしまったかも、と思う。

 

今はいいね。

NHKのアナウンサーでさ、少なくとも反則をほぼ完全に理解しているもの。

ふつうに見ていれば、ルールを理解できるようになる。

 

ラグビーは最後までアマチュアリズムにこだわった。

 

きっとその頃のNHKのラグビー中継の担当アナウンサーは、

「ラグビーについては、アナウンスもアマチュアリズムでいい」

と思っていたんだろうね…。本当にしろうとだった、ハハハ。

 

最後に。

「早明戦」という呼び名は、早稲田から見た呼び名で、明治からしたら「明早戦だ」という人もいたけれど、ここでの記述は、耳慣れのいい「早明戦」で通した。

 

僕は、ふたつの名前が続くときには、うしろにあるほうが、「大物」的な感じがするけどなあ…。