なんであの頃は、こんな日本語になっちゃっていたのだろう?

いくら英語の翻訳小説だからって、カタカナばかり。

普通のひらがなや漢字で書けばいい言葉でさえ、カタカナにしてしまっている…。

 

今、読んでいる本は、ハヤカワポケットミステリの一冊、ジョン・ディクスンカー著「毒のたわむれ」(村崎敏郎訳)。初版は1958(昭和33)年、再版が1993(平成5)年。シリーズ1600点突破を記念して復刊されたケース付きのポケミスだ。

ただの復刊であって新訳ではないから、昭和33年に出版されたときの表記のまま、35年後の世紀末間近に再版された。昭和33年というのは、上皇様ご結婚の前年で、長嶋茂雄さんがジャイアンツに入団した年ではなかっただろうか? とても昔だ。

 

最初の数ページを読んだところで、カタカナの多さに混乱した。

次に、ああ、こういう翻訳に翻弄された時期があったなあと思い出した。

時代としては、1975年くらいまでのあいだ、文化的な背景としては、畳文化や日本の伝統文化がまだ、欧米から入ってくる文化よりも強かった時代だ。

 

でも日本文化は、圧倒的に欧米文化におされ始めていた。日々、新しいカタカナ語がテレビや雑誌を賑わす。

 

そんな背景のために、人々は混乱に陥ったのだと思う。

 

もちろん、僕らの世代は、西洋文化をすんなりと受け入れつつ、日本の伝統文化は薄らいでいくものだとどこかで確信していた。

終戦時に10歳未満だった父や母も、戦後すぐから欧米の映画に親しむなど、日本に入ってくるたいていの欧米文化には対応できていた。

 

でも、父母でさえまだ40代前半の1975年には、何世代もの人々がその上にいて、彼らにとってはちゃぶ台と畳と和服が当たり前の時代だった。東京で暮らしていても、祝日には軒先に日の丸を掲げる家が、まだかなりあった。

 

そうした人たちが、翻訳も行っていた。

「終戦時の大人たち」が、流れ込んでくる欧米文化に対応しながら、増えていく海外文学の翻訳に向かっていたのだと思う。

 

「コート」は「外套」と記され、「テーブル」は「食卓」とされていた時代。

「テーブル」ではわからない人もいる。「食卓」と書いてようやく、「食事をする机だけれど」「ちゃぶ台のように低くはないもの」と伝えられる…。翻訳家も編集者も苦労したと思う。

 

「本来日本にない文化・もの」は「カタカナ」で表記される。

ただ問題は、そうした「異物の流入」が多すぎたことだ。「異物」が多すぎたから、日本語として認識されているはずのものにさえ疑いの目が向けられてしまった。

 

あらためて語源を考え、これは日本起源の言葉ではないかも、という疑いが少しでも生じると、それまでの漢字・かな表記を捨てて、カタカナ表記に逃げてしまったのではないか、という印象が、この時代には、ある。

 

たとえば、「毒のたわむれ」の30ページまでには、こんな言葉がカタカナになっている。

 

シックイ(漆喰)

ジュウタン(絨毯)

メッキ(鍍金)

セリフ(台詞、科白)

ヨロイ戸(鎧戸)

ニッポンのチョーチン(日本の提灯)

ベソ(「しくしく泣くこと」の意味)

 

それを日本語で書く? という言葉もあれば、なぜそれをカタカナにするの? 漢字をつかったほうが意味がわかるのに…、という言葉もある。

 

「漆喰」や「鎧戸」と書かれていれば、こうした言葉に耳慣れない15歳の僕でも、日本で当たり前につかわれているものとして、認識しただろう。「漆喰」はイメージしづらくても、「鎧戸」なら「鎧のようなしっかりした何かをまとった窓」というイメージを持てたはずなのだ。

 

でも、人生の最初のほうで、「シックイ」「ヨロイ戸」の表記に出くわしたために、僕はこれらを、「海外から入ってきて日の浅い技術をつかった何か」だと思い込んでしまった。

 

カタカナ語は、外来語を表現する以外にも、「日常的にはあまり出くわさないもの」「強調したいもの」を表すにも効果的だ。

 

小学生のマンガにはよくカタカナが用いられる。小学生には未知の言葉が多いし、擬音を大きく書き文字化することで、効果を得られる。マンガのコマ割りと一体化してもいるから、違和感はない。

でも、小説で、マンガと同じことをやられていると、やはりうっとうしい。

この本でそれをとくに感じたのが、副詞や形容詞だった。

 

アリアリと、オドオドして、カタリと、ガタリと、ガックリと、カッと、ガラガラと鳴る、カラカラの、キッパリと、キラリと、ギョッと、グダグダな、クッキリとした、グッと、クルリと、シュウシュウ鳴る、コツコツと、ジックリと、グラグラと、ゴロゴロと、サッと、ジッと、スッと、ズラリと、スルリと、ズルリと、ゾッと、ダブダブの、ダラリと、ダランと、チクタクと、チラチラ見えた、トボトボ歩く、トンと指でたたく、ニコニコして、ニッコリと、バタバタと、バチバチと、バラバラの、パッと、ビクビクして、ピクピク動く、ブクブクふくれる、ブツブツ言う、フラフラと、ムカムカと、モジモジと…。

 

最初の30ページに、これだけのカタカナが副詞や形容詞に用いられている。何度も出てくる単語もある。

さらに間投詞や毒づきにも、カタカナがつかわれている。

「クソっ」

「ホラ!/ ホレ/ ソーラ/ ソレ!(人の注意を引きつけるための言葉)」

「フム」

 

海外文学だから、街の名、人の名、海外起源のものの名は、当然カタカナだ。

そうした「海外の名詞」以外に、これらのカタカナ語は5つも6つも1ページに出てくる。

じつに読みにくいものだと、今回、あらためて感じた。

それが250ページ続いた。

 

その後、日本の生活様式は、欧米のもののほうが優勢になって歴史を刻んだ。

 

今では、海外由来の製品がひと通り生活のなかに根づいたから、カタカナで書く言葉と、日本語らしい言葉のすみわけがくっきりとしている。

 

あやふやだった「なぜかカタカナ表記」は、もうない。整理され、「やたらにカタカナ」の文化は影を潜めた。

 

おかげで、かなや漢字のなかに適度にカタカナが用いられている今の翻訳小説は、とても読みやすい。日常生活につかわれているカタカナ語も、IT系でなければ、たいてい身近になってイメージしやすくなった。昔は、「マントルピース」と言われても、何のことかわからなかったもの…。

 

ただ、ほんの少し杞憂もある。

今は、日本文化への回帰色が強い。

若い人は、海外文化を取り入れるよりも、「日本文化を掘り起こして楽しもう」としているように見えるし、日本語を用いた言葉遊びもさかんだ。

 

でもだからといって、「天鵞絨(ビロウド)」や「桑港(サンフランシスコ)」と、「なんでも漢字表記」に戻るのはやだなあ。

文章は、「読みやすい」「理解しやすい」のが、いちばんだ。

僕にとっては、今のバランスがいちばん心地よい。