前回のあらすじ。

6月のある日に訪れた築地場外は、がらんとして、嘘のように活気が失われていた。

めったに買ったことのない乾物店で手に入れた「あおさ」が、これからの築地を暗示しているようで、僕はショックを受けた。

 

 

 

乾物店のあと、あらためてかつお節店を訪れた。

「お久しぶりです」

「ああ、いらっしゃい」

 

なかなか出づらくて足が遠のいちゃった、元気でしたか、と話しながら、かたわらのかつお節の箱を見た。いつもならふわふわした削り節が山になっているのに、今日はちがう。深さが90センチくらいの白木の箱の底のほうにちょこんとあるだけだ。言葉が途切れた。

「あ、…いつもの、半分ください」

 

削り節のふわふわを何度かすくい上げながら、上下を入れ替えて、空気を取り込むようなしぐさをしてから、はかりに乗せた大きな紙袋に削り節を詰める。それが、僕が見慣れている風景だった。ふわふわしているあいだにかつお節の香りが漂ってくる。

 

削り節のために築地に出向くときには、乾燥してふわふわした削り節を手に入れたい、という思いから、よく晴れた湿度の低い日を選んでいた。

 

青空とさわやかな空気。そして、ふわふわ踊る削り節と、漂う香り。そんなすべてが混じり合った、いかにも専門店で買い物をしている充実感が好きだった。

 

でも、この日は、それを望むべくもなかった。

底のほうのけずり節をとって、紙袋に入れてくれた。大量の削り節を置いておけるほど客が来ないのだろう。今、すくってくれているのは、いつの削り節なんだろう…。

 

削り節の白木の箱には、かつお節の種類と、1キロ当たりの値段が書かれた札が置かれている。「半分」というのは500グラムのことだ。店頭のふわふわ削り節の最低の単位。なかなかのボリュームになる。

 

家に帰るとすぐに250グラムずつに分けて、ビニール袋に入れ、さらにジップロックに入れて冷凍庫で保管する。初めは冷蔵庫に入れていたけれど、どうしても水分を吸ってしまうので、冷凍庫での保管に変えた。

 

削りを持ち帰ってその作業をしていると、この日は、ふわふわしていない部分に何度もぶつかった。底のほうに長くあって圧力がかかったのか、湿ってしまったのか、削り節どうしがくっついて、だまになっている。そんなのがいくつも…。

 

築地でこうした「がっかり」を感じるのが、つらい…。

無条件で信用していたのに。

 

ひょっとしたら、もう築地は終わりかもしれない…。かつお節を移動させながら、悲しい気持ちになった。あおさのこともあった。

どうにか保ってきた「築地の矜持」も、終焉を迎えてしまうのだろうか。

 

その6月のかつお節はとっくに使い切っていた。でも、築地に行くのが怖かった。また同じように底のほうに残った削り節を買うことになったら、僕はかつお節を買いに築地を訪れるのが、楽しくなくなってしまいそうに思えたから。

 

10月に、豊洲を訪れるチャンスがあった。用事はベルギービールフェスタだったけれど、豊洲市場をめぐってみようと足を向けた。豊洲の市場は、3棟のビルにわたって入っていた。すべてをめぐると1キロくらい歩く感じだ。あちこちに警備員が配置され、築地市場のときのように仲卸セクションには入って行けそうになかった。

 

乾物店などが出店している一般小売区画で、パックに入った250グラムの削り節を買ってみた。二、三度つかってみたけれど、慣れないせいか、まだ味が軽く感じてしまう。同じ分量でだしをとっても、いまひとつ満足ができず、試行錯誤中だ。

やはり、つかい慣れた、築地のあのかつお節の味がからだに馴染んでいるようだ。

 

11月17日。そんな思いを抱えながら、築地場外に着いた。

人出が戻っていた。歩きづらい。日本人だけで賑わっていた頃に近い人出だ。

まだ築地は生き残るかもしれない…。

 

市場が閉じる前にでき上がった「築地魚河岸ビル」をぶらつく。閉場後は、なかなかの人出だったけれど、この1年くらいは歯が抜けるようにテナントが撤退して、勢いが止まり始めている印象があった。空きスペースはすぐに埋まるとはいえ、不安定感があった。

 

6月には、正午なのに半分近くの店がシャッターを閉めて、築地の閑散の象徴のように思えるほどだった。かつて店先に並べて、一般客のランチ用に売っていた刺身の盛り合わせや握りずしのなどのパックもあまり見当たらなかった。

 

そうしたパックを買って2階の休憩所で昼ご飯を食べるのもうまそうだ、と常々、思いながらも、実行に移せていなかった。感染症対策の面もあるのかもしれないから、それももう経験できなくなっていくのだろうか。

 

築地魚河岸ビルのテナントは、元気を取り戻していた。店舗の借り手のないままの空間はあるものの、活気が戻っていた。歩いていると、店の人が声をかけてくる。6月には閉まっていた「入船」の商品を扱ってくれている店も、開いていた。ほぼ僕の知っている築地だった。

 

あおさの店に寄ってみる。豊洲へ行ってきたことを話す。豊洲の事情をいろいろたずね、やはり一般人はもう、仲卸さんとはつきあえないみたいだ、とわかる。できるかぎり築地で今までに近い買い物ができるのが理想だな、と改めて思う。

 

ビルを出て、かつお節店をちらっとのぞく。まだ豊洲で買ったものがあるから今日はいいか…。

奥のほうで店の人が丸椅子に座っていた。気づくかな、としばらく視線を送った。何かをぼんやりと見つめているようでこちらには気づいてくれなかった。

 

まあ、いいや、これなら、またここで買える。

削り節の白木の箱には、以前ほどではないけれど、七分目ほどまでふわふわが積まれていた。

 

その夜、都内の一日の感染者が500人に迫ったという報道がされた。

築地にも東京人にも、また「危機」はやってくるのかもしれないけれど、とりあえず今日のところは、築地も僕も元気だ。