幸田家。

僕はその人たちの文章を読んだことがなかった。幸田露伴「五重塔」さえ。

幸田露伴は、僕にとっては時代の重ならない文豪。今までは、織田信長と同じような歴史上の人物に過ぎず、呼び捨ても気にならなかった。露伴の娘の幸田文さんの名は知ってはいても著作を手にとったことはなかった。孫の青木玉さんは、名さえ知らなかった。

 

友人がこの三人の名をあげて、いいよ、と言った。

彼の薦めた本をこれまでに何冊か読んでいた。この三人の名は、以前から話に出ていた。今度また話題にのぼって、図書館で予約をした。

「五重塔」に感動したのち、青木玉さんの「小石川の家」を読んだ。「五重塔」は、文庫本90ページほどでありながら、文語体で書かれた骨太な小説だ。集中力と時間を費やしたから、露伴のほかの短編はあとまわしにして、玉さんの随筆に移った。

 

小石川は、我が家から徒歩20、30分で着く地域である。家の前の道をまっすぐいけば着く。バスでもよく通る。

その小石川の、幸田露伴が暮らす家に、母の幸田文さんとともにに移り住む経緯から始まるこの随筆集は、まず僕に、地べたも時間も続いているという感覚を起こさせた。

地名が現れると、現在のその周辺の風景が頭をよぎる。向田邦子さんの作品でもそうだが、そこに登場する土地や人に馴染みがあれば、それだけ印象も強くなる。

 

しばらくは幸田露伴をとりまく生活が、玉さんにとってどのようなものだったかが描かれていた。かなり個人的なできごとが続く。でも東京もんの暮らしと時代が見える。小説家や芸術家の息づかいや、所作や振る舞いの文化なども見えてくる、と思いつつ読み進んだ。

 

中盤から一転する。

戦争をさかいに、どのように生活が変わっていくか、当時の名を成した男がどれほど気軽か。その世話をする女性がどれほど健気で、気苦労と忍耐が必要だったかが、戦争の足音が強くなるとともに、東京が戦火にさらされるにつれ重石のようになってゆく。

 

終戦の間際からは、死の気配を漂わせながら人々へのまなざしがより一層くっきりとしてくる。自分をとりまく人々と、出くわしてしまった人々。それらのコントラストが激しくなってゆく。

幸田文さんとの最後の時間。病院への見舞から葬儀の終了までは、これが随筆なのか、というほどの力強い感情の描写と人々の動きが、迫ってくる。

 

代々、東京の幸田家は、疎開するにも親類を頼れない、とあった。

我が家も代々、東京で暮らしているから共感する部分もあった。

 

夏休みになると、僕はぽつん、としていた。両親とも、あるいは両親のどちらかが東京に出てきたクラスメートが多く、田舎に遊びに行ってしまうのに、僕には泊るべき別の地がなかった。

僕の親族は、もっとも遠くても湘南の入口の大船という駅に暮らしていた。皆がすぐに会える距離にいた。田舎、がどんなものか、わからなかった。

 

「東京は冷たい」

当時、ドラマでよくそういうセリフを耳にした。小学校の担任も、東京と、江戸時代を頻繁に悪く言っていた。僕は、東京はそういうところだと刷り込まれていた。今では、担任が悪印象を植えつけた理由は、想像がついているけど、それはまたの別の話。

 

大学に入ると、面と向かって「東京人は冷たい」と言われた。発言主は、下宿生たちだった。それまでの「東京は冷たい」が、「東京人は冷たい」になって、突然、身近になってしまった。僕たちが冷たいの? それがきっかけに僕は、東京に住む人々について真剣に考えるようになった。

 

まもなく、東京もんは冷たいはずはないんじゃないか、と思い至った。

僕らの文化は、東京暮らしを始めたクラスメートが生きてきた文化や習慣とはちがうから、僕らの親しさの表現を理解してもらえていないのではないか。

 

人の目の多い場所で生まれて育つ東京もん。古くからの知りあいは、つねに僕たちの成長を見ているし、歩けば声をかけられ、ちょっかいを出される。

 

十代になると、その目を「うざい」と感じるようにもなる。でも、逃げるわけにはいかない。

その一方で、大人たちも通ってきた道だから、思春期以降に僕らのムードが小難しくなってくると、それまでのおせっかいが、少し遠巻きな感じに変わってゆく。

 

それでも、僕たちは、それまでの記憶から、まだ見つめられているように感じて、成長過程では、つねに世間を意識しながら生活をすることになる。その距離感が東京なのだ。

 

大人と子どもはそうした「東京の掟」でつながっていた。

ずっとここで暮らす僕らが「冷たく」などなれるはずがなかった。

 

じゃあ、誰が冷たくしているんだ? それは、近所の目を嫌っている人たち、近所づきあいを一存でやめられる人たち…。ああ、そうか。そういう人たちか…。

 

「東京は怖いところだから、気をつけてね。人を信用するんじゃないよ」

子ども時代にはそういうセリフにもドラマでよく行き当たった。

最近では、コロナを持ってくるな、東京こそ元凶だと、悪者扱いされた。

 

でも、僕が祖母の世代から聞いていた話は、これとは真逆だった。

 

戦後の食糧難の時代に、東京の女たちは、交換してもらえそうな衣類や宝飾品を詰めた大きな風呂敷包みを背負って、汽車で2,3時間の農家へ、食料の調達に出かけた。でも、足元を見られて、わずかの芋と野菜しか手にできなかった、という。

「それ以上はやれねえなあ。いやなら置いて帰んな」

 

そんなに薄情なの? と驚くと、悲しげな、悔しそうな顔をした。

東京が怖いのか、農家が薄情なのか、僕には確かめようがなかった。

 

「小石川の家」には、これとまったく同じ記述が登場する。

ああ、本当だったんだ。多くの東京の女たちが受けた仕打ちだったのだろう。

 

それを「仕打ち」と感じるのは、東京もんの心根に元があると思う。

東京もんは、狭い土地にひしめき合って暮らしているから、人との出会いも多い。だからいちいち好き嫌いを表には出さないけれど、親切な人、好意を持てる人と出会えば、その人々とは心を通わせて、欲得尽くでない交流をする。

 

「小石川の家」にも、古くからかかわりのある人々、ご近所でつき合いのある人々のことは、おおかた親切に描かれている。

 

おたがいさま、で生きているから、ふだんの生活からかけ離れたこうした悪意に出会うと、とても悔しく切なくなってしまうのだと思う。

 

玉さんが最後におかあさんと向き合う終盤には、そうした東京もんの気質と、欲得尽くの人の気質が、死を背景に強いコントラストで書き込まれていて、僕の魂を揺さぶった。