神保町のすずらん通りに「スヰートポーヅ」という店がある。神保町にかかわりのある人、出向く頻度の高い人なら、まず知っている、包子と餃子を売る店だ。

餃子は、にんにくをつかわず、しょうががきいていて、包む皮の左右の端があいている。

 

「(皮の端がきちん閉じられていないから)これはすでに餃子ではない」

あるとき、食べログか何かを読んでいて、こう断じている文章に出くわした。

しゃらくせえ、と思った。

 

かつて山本×博が「いもや」(天ぷら定食のいもや、の評価だったと思う)に低評価を与え、こう決めつけていたのを思い出した。

「ころものつけ方がまずい。薄利多売の店」

しゃらくせえ。そのときも、そう思った。

 

ひいきの店を不当に評価されるのは、やなものだ、と思う。

しかも、こういう評価は、その店が、その街で勝ち得ている「ありがたみ」を無視しているから、しゃらくせえ、と感じるのだろう。

 

この店の近くの大学に通っていた。ある日、別の大学に進んだ先輩が

「おまえ、あそこの餃子、食ったか? あのほら、スヰートとかいうの」

「ああ、スヰートポーヅですか、まだです。店の前はよく通るんですけどね」

「神保町へ通ってて、行ってねえのか」

そうあきれられた。

 

神保町はランチがごく安い。まだ1ドルが240円くらいで、海外から魚介類を廉価で仕入れるのが難しいときに、「いもや」の天丼は450円だった。当時の東京では、ふつうに安い天丼でも700円はしていたから、神保町のありがたみがわかる。

 

貧乏学生は、大学のそばの、そうした安い店が立ち並ぶ地域でよく食事をしたけれど、スヰートポーヅは、もう少し遠くの、「すずらん通り」沿いにあった。安い店が並ぶ地域ではなかった。

 

でも、一度、入ってしまうと、忘れられない味になった。

 

店内のそっけなさもいい。昭和40年代にはやったテーブルと丸いパイプ椅子。ひとりあたりに与えられる食事スペースは、60~70センチ。そこに、アルマイトのお盆に乗った定食が運ばれてくる。

 

ぎゅうぎゅうに詰めても12人くらいしか入れない店内。客席スペースは、それこそ2坪くらいしかなかったんじゃないだろうか。

 

30歳前後の頃、この街で、ある出版社の本を書いたり編集したりしていた。

その日、事務所で作業をしていると、北海道の友人が突然、事務所に電話をかけてきて、すでに東京にいるという。じゃあ昼飯を、と約束して、神保町まで来てもらった。

 

昼だからビールでもいいだろうとスヰートポーヅに連れて行った。僕はほぼ飲めないし、すぐに赤くなるから、1杯だけ付き合うつもりだった。いくらフリーランスでも、事務所のスペースにはその会社のスタッフもいる。酔って帰るわけにもいかなかった。

 

久しぶりの再会。さらにうれしさを増長させたのが、友人がスヰートポーヅの餃子をうまいうまいと絶賛したことだった。ビールもすすみ、気づくと2時間で餃子を60個くらい食べていた。

その後、仕事場に戻ったものの、まともに仕事をできるはずもなかった。

 

所帯を持ってからは、たまたま神保町で用事があると、夕飯用のお土産を包んでもらって、持ち帰った。餃子は値上げをしても、つねに4個売りだった。最後に買ったときには、4個で230円だったと思う。たいていは16個。これだと1000円でたりるし夕飯用の量にもなった。

 

今から2週間くらい前だろうか、友人が、Messenger にある記事を送ってきてくれた。

「神保町のスヰートポーヅが、6月中に閉店していたことがわかった」

ひっそりと閉じたようだった。

 

ヘッドラインを読んで、彼に返した僕の返事は、そのときの気持ちそのままだった。

「えーーーーーー!」

 

数週間前に、同じすずらん通りの「キッチン南海」も閉店していた。こちらは、僕より少し上の世代の思い入れの強い店のようだった。僕は、2,3度しか入ったことはなかった。僕の地元が、洋食屋が充実している町のため、神保町で入るチャンスが少なかったのかもしれない。

 

スヰートポーヅの閉店の理由は書かれていなかったけれど、感染症とは無関係だろうと、僕は思っている。たぶん、無関係な閉店、のほうが、僕のなかで受け入れやすいのかも…。

 

スヰートポーヅの閉店のニュースと前後して、「シルク・ド・ソレイユが破産手続き」のニュースを耳にした。少なからずショックだった。ものづくりをする人間にとっては、刺激を受けやすいチームだった。パフォーマンスはもちろんすばらしいけれど、色づかいや造形を見ているだけで楽しかった。

 

このふたつのニュースを、僕は、ほぼ同じラインでとらえていた。

たぶん、自分の生活に大きな影響を与えたものたち、として。

 

規模では圧倒的に小さいスヰートポーヅが、僕のなかでは、シルク・ド・ソレイユと肩を並べていた。大事件、と言う意味では、むしろ、スヰートポーヅだった。

 

「ああ、もう一度、食べたかったなあ、閉店がわかってたら、持ち帰り用をお願いしてたのに」

そう思った。上手に包まれた小ぶりの餃子たちが頭に浮かんだ。

 

「キッチン南海が閉じると知ったかつての常連客が、今日の最終日に行列をつくりました」

数週間前にテレビで見た映像を思い起こしながら、そんなふうに思った。

 

並ぶにしても持ち帰りにしても、食への思い入れと思い出は、きっと同じように大きいのだ。

食の記憶は、ほかの記憶に比べ、ずっとさまざまな場面とつながっているものなんだろう。