私にとって、本職の「福祉・介護職」は、自分の「思想」の実践。そして「自主制作映画」は、自分の「思想」の表現手段であると考えています(映画については、そうでもない部分もありますが、地元を舞台に記録していくという意味では同じです)。

私は、群馬県桐生市に生まれ、育ちました。途中、学生時代や就職したての頃は、愛知・大阪と住んでいましたが、この20数年は、ずぅっと桐生に住み続けています。

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さて、その「桐生市」が直面している問題で、私がいちばん注目しているのは、「超高齢化」です。

「桐生市の統計概要」によると、昨年の3月時点で全人口に占める65歳以上の人口比率は31.4%、逆に15歳未満の人口比率は11%。特に、65歳以上の人口比率は、日本が2030年にむかえる筈の「超高齢社会」の予測人口比率とほぼ同じ数字です。もう、おわかりでしょうが、桐生市は、日本がこれから抱えるべき問題の15年先を行っていることになります。

もっと、言ってしまえば、今、騒がれている、「団塊の世代」が一斉に高齢化をむかえる「2025年問題」よりも、深刻な状態に桐生市は置かれているということになります。

深刻度は、想像以上です。

「街」の活性化の話になると、「若い人達がもっとがんばって・・・」という言葉を良く聞きますが、そもそも、そういった若い人達自体が、存在しないという、冗談のような本当の話が、この街の「現実」に確実になりつつあります。

話は、逸れてしまいますが、こんな「街」には、もう新しい「箱もの」は、いりません。駅前の活性化、街の改造、シャッター通りの改善、大企業の誘致等、すべて不可能な状態であるくらい、住んでいる市民の状況は悪化しています。ですから、むしろ、これから街の活性化が論ぜられるのならば、既に存在している社会資源の活用の方が、より現実的でしょう。どこかの映画の台詞ではありませんが「問題は、シャッターが閉まった店の中にある(つまり、その中に住んでいる高齢者の救済)」と、いう訳です。

危機感ばかり、あおっていますが、日本全体が深刻な「超高齢社会」をむかえる頃には、桐生市の人口は、三分の二、いや、それ以下になっていてもおかしくないですし、私自身もその頃には、高齢者予備群か高齢者になっています。

では、何が必要なのでしょうか?

急務なのが、住民や社会の「ネットワーク化」ではないでしょうか。つまり、「安心して老いて、安心して死んでいける環境の構築」です。孤独死の防止、認知症高齢者が徘徊していても無事に戻ることが出来る環境、介護負担の減少、介護難民の把握等、パソコンのネットも含みますが、それだけではない「社会のネットワーク化」が必要に思います。これらは、九州の大牟田市などのモデルケースもあります。

長々と書きましたが、国の政策で「福祉・介護切り捨て」が現実になっている以上、ここで踏ん張っていくのは、地方自治体です。条例の制定、地方の社会政策の見直し、市民を本当に守っていく意味での街作り、など、課題は山積みです。でも、目の前の「超高齢社会」に立ち向かって行かない限り、そのあとの、未来の街作りはできないのではないでしょうか。