Type Dのブログ

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ある世捨て人の逍遥。

 

 諫早湾(いさはやわん)の潮受堤防排水門(しおうけていぼうはいすいもん)である。遠くに映(うつ)るは雲仙岳(うんぜんだけ)であると説明されていた。

 

 【20以上の山々からなる火山群の総称である】(ネットより)

 

 小学生の時に、母方の祖父から九州地図を見せられて「この諫早湾を埋め立てる計画があるんだよ」と教えられて●十●年。ようやく現地に到着した。百聞は一見に如かず。

 

 1997(平成9)年、全国ニュースで「堤防の閉め切り」が大きく報道された。「海がギロチンにかけれた!」という衝撃的な文言つきであった。当時、わたしは考古学の発掘現場でアルバイトをして、何とか糊口(ここう)をしのいでいた。その時に、「秋の長雨」に遭遇してしまったのである。考古学の発掘は露天で行われるので、雨が降ったらビニールシートを広げて現場を保存するしかない。実に11日間雨は降り続けた。なぜ憶えているのか?雨の期間中は発掘現場に入れず、もらえるはずだった「日当」を計算して、天を仰いでいたからである。埋蔵文化課の現場監督さんは発掘計画が大幅に遅れて、違った意味で天を仰いでいた(笑)。

 

 さて、地元ローカルTVニュースではこんな報道がなされていた。「この雨で諫早湾干拓地にそそぐ川が今にも溢(あふ)れそうになり、排水門が機能した。干潮と満潮の潮位の変化を利用して、干潮時に排水門を開け放ち、干拓地に溜(た)まりに溜まった雨水を排水しつづけた。結果、干拓地および周辺の道路付近にまで達していた水位は下がり、町は水没をまぬがれた」と。

 

 その日の夜の全国ニュースは、この事例を一切取り上げて報道はしなかった。『ニュースステーション』も『ニュース23』もである。いったい何なのであろうか?こんな大事な事例を判断材料として国民に知らせないなんて。北海道や東北にお住まいの人々はたぶん今でもご存じではないのでは?「報道しない自由」ですか?なんともである。本日も晴天なり。

 

 

 長崎県の島原城である。2024年の10月末にここを訪れた。同期の桜がここにいるので、長距離ツーリングでご挨拶に伺(うかが)ったのであった。たしか片道が約170キロほど。なんと夕食をごちそうになってしまった。ありがとうO君。その後に島原城を訪れたので、閉まっていたのはまぁ、当然か。ライトアップされていたので画像を数枚撮(と)ったわけである。

 

 かなり前に、作家の司馬遼太郎氏がこの地を訪れた。『街道をゆく』シリーズであった。たしか郷土史家との対話が載せられていた。「島原の乱」で人が死にすぎたので、各地から入植者が多く訪れた、と。その入植者のなかで、出身地が推定できない村落があるという。彼らの住む地域では「すごい」を「がば」と表現する。どこの出身だろう?と郷土史家は言っていた。無論司馬氏にも分かるはずもない。ただわたしは知っていた。「すごい」を「がば」と表現するのは福岡県の久留米市付近の方言だった。しかし、「島原の乱」で人が死にすぎた、とはすごい有様だ。その後の入植者が入植する以前の方言を維持しつづけているのもある意味すごい。「がばじょっかー」である。本日も晴天なり。

 

 

 

 

 

 

 今日は場所を変えて城南区にある親水溜池(しんすいためいけ)へ。この辺りは大きな川がなく、昔の農業溜池が多い。市街化とともに農業溜池は役目を終え、整備され親水溜池へとリニューアルを遂(と)げている。鳥を愛するギャラリーもちらほら。水面(みなも)を眺(なが)めていると、珍しい水鳥が。冬鳥のハシビロガモ(雄)である。下はヒドリガモ。久しぶりに見た。これはブログのいい話の種になる。

 

 そう思った矢先、水鳥たちが騒ぎ出し、岸辺から溜池の中央部に向かって移動していった。ん?

 トンビである。水鳥たちは警戒音を出して溜池の中央部へ。

 スマホのカメラではこれが限界であった。画像が途中で切れていて申し訳ない。

 親水溜池のすぐ横のコンドミニアムの上で佇(たたず)むトンビのつがい。右側が雄なのだろうか?水鳥たちは飛ばずに溜池の中央部に集まった。うかつに空中にあがると猛禽類に捕まってしまうという判断なのだろうか?シベリア仕込みの生存戦略、しかと拝見しました。本日も晴天なり。

 

 

 真冬の二見ヶ浦である。寒い。寒すぎである。もうすぐ立春なのに。波はおそらく訪れた中で一番高かった。鳥居には「鵜」(ウ)がとまっていることも多いのだが、今回はいなかった。夏とはまた趣(おもむき)が違う。これもまたよし。

 

 台風による土砂崩れで、付近の道はまだ片側通行であった。訪れる方はご注意を。

 

 

 付近の海岸ではいつもウエットスーツを着たサーファーがいた。この波の高さならば、と行ってはみたが、サーファーの姿は見当たらなかった。かわりに釣りをしている人が数名。この海岸で釣り?初めて見た。砂浜の入り口に真新しい看板があった。【事故多発!この海岸では「離岸流」(りがんりゅう)が発生して、沖まで流されることがあります!】

 

 

 道中の小さな食料品店で、みかん一袋(8個入り)を購入。300円なり。店主から「甘いですよ」と。帰宅して食べると、その通りだった。大きくて甘い。近年食べたみかんの中では最高だった。いい買い物であった。その後で「桜井神社」へ。久しぶりの参拝。厳(おごそ)かな神社である。

 

 海側から少し離れると、菜の花が咲いていた。春の訪れであろうか。あとひと月もすれば、もっと伸びてもっと花を咲かせるだろう。本日も晴天なり。

 

 

 

 

 

 志免町(しめまち)の竪坑櫓(たてこうやぐら)である。櫓の部分は1941(昭和16)年に着工。1943(昭和18)年に完成。地下の竪坑は1943年(昭和18年)から1945(昭和20年)に完成したという。高さは約48メートル。当時としてはかなりの高さである。詳しくは志免鉱業所竪坑櫓 - Wikipediaをご覧あれ。

 

 この竪坑櫓(たてこうやぐら)を初めて見たのは小学校に入学する前だった。当時はこの櫓の窓ガラスは全部健在であった。1990年代の後半ごろから窓ガラスがぽつぽつ割れはじめ、21世紀に入ったあたりから窓ガラスの破損が目立つようになった。窓ガラスが全部破損している画像はだいたいこの時期に撮影されたものであろう。この竪坑櫓(たてこうやぐら)の近くには「日産チェリー店」があって、「珍しいな」と子供心に思ったものであった。日産チェリー店と言えば、「愛知機械時計工業」が生産していた「コニー」の販売会社が基礎になっており、愛知機械時計工業は「愛知航空機」が前身である。日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機を造っていた。愛知航空機 - Wikipedia

 

 【艦船用石炭及び海軍工廠等で使用する工場用石炭の採掘施設として、第四海軍燃料廠(ねんりょうしょう)採鉱課(さいこうか)の計画及び設計に基づき、昭和16~18年にかけて建設】(旧志免鉱業所-竪坑櫓|福岡県糟屋郡志免町)されたのがこの竪坑櫓なので、一応のつじつまは合っている。わたしは若い頃、この「日産チェリー店」で将来スカイラインを購入しようと思っていたのだが(当時は「スカG」と呼ばれていた)。

 

 今、あらためて見ると、わたしが知っていた竪坑櫓(たてこうやぐら)よりもコンクリートの色が白くなっているようであった。また、窓ガラスは全部新しいものと交換されているようである。保存のための改修補強工事が行われたのか?志免町のみなさま、ありがとうございます。本日も晴天なり。

 

 

 天気予報では寒波は日曜日までということだった。しかし寒波はつづいたのである。ゆえに鍋である。「ナントかのひとつおぼえ」?

 

 スープは「鶏がらスープ」を購入した。しかしそれほど美味しくはなかった。二杯目からは独自に味付けをおこない、けっこう美味しくなった。

 

 某コンビニでは夜12時におでんを仕込むのだが、スープは温めたお湯にうすくち醤油を軽く投入しただけだった。それで十分美味しかった。既製品に頼ることはないのである。単純な味付けでも十分やっていけるのである。本日も晴天なり。

 

 

 

 スバル・レオーネ(マイアⅡ)。社会人になって購入した。通勤の足である。もちろん新車ではなかった。不人気車ということで、価格はかなり安かった。ボンネットを開けると、スペアタイヤが縦置き1600㏄水平対向4気筒エンジンの上に鎮座していた。こういうところは昔のヨーロッパ車のようであった。3速ATなり。

 

 購入して最初にATフルード(Automatic Transmission Fluid)の交換をガソリンスタンドでおこなった。とたんにシフトショックは無くなった。いい感じであった。エアコンも購入前にチェックして大丈夫だったが、念のためにエアコンのガスを補充。これで完璧。通勤が楽しかった。

 

 ただ、タイヤのホイールのナットが普通は19ミリか21ミリだったのだが、このクルマは17ミリであった。何なのだろう?何の意味があったのだろう?スバルのこだわりか?1600㏄というのも、日本の税制では「1500㏄以上から2000㏄未満」の自動車税の支払い区分になる。何なのだろう?スバルのこだわりか?

 

 転勤による移動で、転勤先に持って行けずに泣く泣く手放したのだが、いいクルマであった。転勤を選ばずに、地元に留まる選択をしていればもう少しこのクルマに乗れたのだが。今でも時々、このクルマの中古相場をチェックしている。もう残っている個体も少なく、とんでもない値付けになっているのだが。さらばスバルよ。本日も晴天なり。

 

 

 

 

 

 

 あいかわらず寒い日がつづく。わたしはふらりとラーメン屋さんの暖簾(のれん)をくぐる。理由は特にない。「そこにラーメン屋さんがあったから」である。

 

 いわゆる「B級グルメ」なのだが、どのラーメン屋さんも独自の努力に余念がない。値段で勝負するお店、味で勝負するお店など様々である。アメリカ人から見れば「おいおい、俺たちの国で言えばホットドックとかハンバーガー的な料理だろ?なぜそこまでエネルギーを注ぐのか?」と言うかもしれない。なぜだろう?

 

 日本人は、アメリカ西海岸の「カリフォルニアロール」を寿司と認めることに抵抗があるかもしれない。日本人にとって寿司はもはや「大幅なアレンジ」を許さないものなのかもしれない。ある東京人は言う「もともと寿司ってもんは、一杯飲んだあとに、暖簾をくぐって、数貫つまんですぐに帰るもんだったんだよ」と。今でいう「締めのラーメン」的な存在だったのだろうか?

 

 ラーメンには「制約」がない。味と料金のバランスが悪いとお客が感じれば、そのお店は退場するだけである。お店の立地も大切ではあるのだが。一杯の値段を一万円に設定して、「伊勢海老ラーメン」とか「アワビとフカヒレのラーメン」もできないことはないのだろうが、それをやってしまうともはや「高級中華料理」になってしまうのではないだろうか。本日も晴天なり。

 

 

 寒い日々がつづいている。今夜は鍋である。適当にでっちあげた鍋なのだが、なかなかの味であった。この記事は数日前に書くはずであった。しかし、風邪をひいてしまって記述ができなかったのである。

 

 現在は?じつはまだ治っていない。もう少し安静にしようと思っている。月曜日からの予定も変更を余儀なくなれた。ここ数年は、「葛根湯」(かっこんとう)ですべてしのいでいたのだが。なんともである。

 

 最近は睡眠時間が短かったので、ここでしばらく良い睡眠を取ることにしよう。「果報は寝て待て」という諺(ことわざ)もある。本日も晴天なり。

 

 夜の闇を煌々(こうこう)と照らすガソリンスタンドを撮影しようと意気込んで来たのだが、営業時間は過ぎていた。なんともである。昼間は交通量が多いところなので、こういった画像は撮影できないのだが。

 

 ここを通るたびに祖母がいつもわたしに言っていた。「ここはむかし、伊藤博文(初代内閣総理大臣)さんがどんちゃん騒ぎをしていた料亭があったところでね」と。

 

 調べてみるとおそらく「常盤館」であったと思われる。伊藤博文、西郷従道、頭山満、平岡浩太郎、孫文、宮崎滔天(とうてん)などが訪れた福博で屈指の料亭だったらしい。古い写真を見てみると、その常盤館はガソリンスタンドの土地だけではなかっただろう。周囲の土地は切り売りされたと思われるので、もう少し常盤館の敷地は広かったはずだ。時節は冬であり、料亭、伊藤博文とくれば、当然「フグ料理」を連想するが、そのあたりの話は伝わっていない。そして「馬賊芸者」と呼ばれた博多の検番(けんばん)に属する芸妓さんに伊藤博文が蹴飛ばされたという話も伝わっていない。本日も晴天なり。