こんにちわ
陽性判定後の記事です
2人目妊活を振り返って書いています
前回の記事↓
入院
絨毛膜羊膜炎と診断された12w0d。
産院に着いたのが16:00頃
診察が終わり入院が決まったのはもう17:00過ぎでした。
コロナ禍のため診察中も車の中で待機していた夫を呼び、
別室で院長から状況の説明を受けてもらいました。
ちなみにまだPCRの検査結果が出ておらず、
長女も保育園に預けることはできていなかったため、
2歳の娘を連れてのバタバタ劇でした。
本来まだ面会もNGでしたが、
状況も鑑みて入院当日だけは、
長女も含めて病室に入れてもらえ、
ちゃんとお別れできたことはありがたかったです。
が、長女は状況理解ができていないのか、
明るく薄情な感じで「ばいばーい」と帰っていきました・・・
入院してすぐに抗生剤の点滴開始
それでも19:30頃からは
陣痛のような定期的な間隔で子宮収縮が始まり、
また熱も上がってきました。
安静で横になっていても、
まったく眠気は訪れず、
ただただ検索魔と化していました。
どれだけ探しても明るい内容は出てこず、
同じような方のブログ等を読み漁っていて、
ちょうど妊娠12週に入ったため、
万が一の時には死亡届や火葬も必要になることを知りました。
そして、12週以降の後期流産の場合、
流産といっても「出産」となるため、
産後休暇が発生することも知り、
あーーーーー・・・と。
そんなこんなでネットをあさっている間に、
やっとPCRの結果が出て「陰性」。
むしろコロナだったら良かったのに・・・
とか考えてしまう。
23:00頃には抗生剤が効いたのか、
収縮痛も治まってきたため、
ネガティブな記事ばかり読んでいても暗くなるだけ、
と無理やりにでも眠ることに。
バタバタな1日で疲れも溜まっていたのか、
思いのほか眠れました。
最後のエコー
翌日12w1d、
起きてから夫に連絡すると、
長女もさすがに夜は異変に気付いたのか、
母がいないことにグズっていたとのこと。
病室で別れるときはあまりにも軽いバイバイだったので、
ちょっと嬉しくなる←
PCRも陰性確定したので、
この日は無事長女も保育園に送ってもらい、
夫は面会できないながら、
入院に必要なものを持って来てもらいました。
私のほうは、
朝食後に院長が顔を出してくれ、
午前中にもう1回エコーで状況みてみましょうと。
ただし、一切ポジティブな可能性を感じさせない話しぶりから、
やはり厳しいのだと思い知らされる。
結局昼食後、
午前の通常診療が終わり、
通っている妊婦さんたちがいなくなってから診察に呼ばれました。
お願い。
良くなっていて。
ぽぽちゃん、元気でいて。
祈りながら乗った診察台。
でも、
もうぽぽちゃんの心臓は動いていませんでした。
間違いであってほしい、
と願っても、
念のため2回探してくれた心音も聴くことは叶いませんでした。
その後の話では、
陣痛促進剤を使って出産することになる。
通常なら日を空けてとなるが、
母体保護のため夕方にはラミナリアで子宮口を広げる処置をして、
明日には分娩にする、
といったことを話されました。
なるべく取り乱さないように、
淡々と相槌を返してその場をしのぎました。
そして診察が終わって、
病室に戻って1人になった瞬間。
堪えていたものが全て溢れ出てきました。
声をあげて泣いたのなんていつぶりだろう。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ぽぽちゃんは元気だったのに。
生きようとしてくれていたのに。
産まれてこようとしてくれていたのに。
ぽぽちゃんは何も悪くないのに。
守ってあげられなくてごめんなさい。
生きようとしていた子どもより、
自分の身体を守ろうと、
危険なものを排除しようと収縮する子宮。
どうしようもないことは頭では理解しているんです。
それでも母として情けない気持ちでいっぱいになりました。
ひとしきり泣いてから、
LINEで夫にも状況を連絡。
「そっか、きっとぽぽちゃんたくさん頑張ってくれたよね。
ごめんね。ありがとう。」
きっと夫も色々考えて返信してくれたと思いますが、
自分の中でもっと違う言葉を期待していたような気がします。
でも、じゃぁ何ていう言葉をかけて欲しかったのか、
何の言葉が正解だったのか、
それは今もまだ自分でもわかりません。
そして夕方からのラミナリア処置までの時間、
出血が多く2日間ほど入浴できていなかったため、
シャワーを浴びたりして過ごしました。
続きます・・・