いつの頃からでしょう、海外オーケストラの演奏会で「国歌」が演奏されなくなったのは。

 

というより、なぜ以前は、と言っても大昔のこと、海外オーケストラの演奏会というとプログラムの前に両国国歌が演奏されていたのでしょうか。

 

多分、海外オーケストラが来日して演奏会を開くことが、そのまま両国の親善に深く関わっていたからなのでしょう。

 

国歌演奏が不要になったということは親善が成されたという意味だと思います。

 

1960年にミュンシュがボストン交響楽団の来日公演で日米両国歌が演奏した興味深い動画があります。ミュンシュはヴァイオリン、ヴィオラ奏者を立ったまま弾かせ、聴衆も席を立って聴いています。皇太子だった時の天皇と美智子妃殿下もいらっしゃいます。お二人とも若い。

 

ミュンシュらしい豪放さを感じさせる「君が代」です。

 

「君が代」はその歌詞が時代にそぐわないと教育現場から排除されつつあります。「君が代」が流れてくると背筋がピンとするような気持ちになるのは、それが日本の国歌で、それこそ日本の象徴であるからに他なりません。

 

今の若い世代にはそういう感覚は無いんでしょうね。

 

ワールドカップなどでアメリカ国歌が流れる自然と聴衆が立ち上がって胸に手をあてて一緒に歌っている姿を見ると、とても羨ましく思います。

 

なぜ羨ましく思うのか?

 

そこに日米の国力の差を感じるからです。絶対的に優っていたはずの治安さえ、今はどうなんだろうと感じてしまいます。そもそも今の日本を誇れる人がどれだけいるのか。

 

東京都知事選に出て惜しくも落選した、前安芸高田市長の石丸伸二さんが東京が絶対的な日本の姿では無い、地方は地方独自の魅力をもっと盛り上げていくべきだと言って、それにより東京一極集中の是正を訴えていましたが、私も全く同意見です。

 

地方地方の魅力こそ、日本の本来の姿なのだと思います。

 

私の住んでいる町も子供の頃繁盛していた小さな店はほぼ無くなってしまっていますし、家やマンションもずいぶん建ちました。それでも戦争時に軍の駐屯地であった関係で広い敷地が学校や公園になって今も維持されているためとても住みやすい環境は変わりなく、そこに東京の過密や喧騒を持ってきたいとは全く思いません。

 

世の中が昔とは大きく変わっていますので、そういった思いはノスタルジックの一言で片付けられてしまいそうですが、いつか日本はその姿に立ち返らないといけないのでは無いかという思いです。

 

そして、そういう思いが「君が代」にあるように思えるのです。

 

さて、海外指揮者による「君が代」は、他にカラヤンとベームのを聴いてみました。特に印象深かったのはカラヤン。

 

他の指揮者が国歌らしい荘厳さを表そうとしているのに対し、カラヤンは優しく慈しむような演奏を聴かせます。