カルロス・クライバーのレコードデビューは確かウェーバーのオペラ「魔弾の射手」じゃなかったかと思います。

 

オペラでデビューというのはかなり冒険だったと思いますが、どの昔グールドがレコード会社の反対を押し切ってバッハの「ゴルトベルク変奏曲」でデビューしたのと同じような自信を感じさせました。

 

私にとってオペラは苦手分野でしたのでウェーバーは聴いていませんので、私のクライバー体験はベートーヴェンの「運命」からでした。

 

まさか「運命」からこんなにも新鮮な感動を得るとは思ってもいませんでした。カラヤンが”あいつは天才だ”と言うはずです。

 

クライバーはレパートリーが狭い癖にオペラをいくつも出すので困っていたのですが、幸いブラームスの「交響曲第4番」やシューベルトの「交響曲第3番、第8番」を出してくれたのでその度に買い求めました。その他には例のコンセルトヘボウとのベートーヴェンも良かったですね。

 

今回はシューベルトの「交響曲第3番、第8番」のCDを聴いてみます。(この録音はレコード、CD両方持っている数少ない例です)

 

シューベルトの「第3番」は学生の頃、演奏したことがあるので「未完成」や「グレート」以外では一番身近に感じます。

 

しかしクライバーで聴くとこんなに曲の印象が違うものか、確かにリズミカルで颯爽とした曲には違いありませんが、そこに何とも凄い迫力が加わります。

 

ちょっと前までは男性的なベートーヴェンに対し女性的なシューベルトという例えが幅を利かせていましたが、フルトヴェングラーが男性的、ワルターは女性的という例えと同じくらい馬鹿げた言い方だと思います。

 

シューベルトは決して女性的な交響曲を書こうとしたはずもなく、それどころかベートーヴェンを凌駕するものを書こうとしたはずです。

 

もちろん若書き、31歳で亡くなったシューベルトには晩年は無かった訳ですが、といった印象は残りますが、とてもいい曲、そして素晴らしい演奏です。

 

「未完成」はかつては「交響曲第8番」と呼ばれてましたが、今は「第7番」なんですかね。私にはやっぱり「第8番」がしっくり来ますし、この1978年のCDにも「第8番」と印刷されています。

 

シューベルトは「未完成」で完全に古典的な交響曲から脱却したのだと思います。次の「グレート」を書いた時、シューベルトは”今までの交響曲はすべて破棄したい”と言ったそうですが、その時「未完成」のことは頭に無かったんだと思います。

 

「未完成」と「グレート」の違いは、シューベルトの目が自分の内に向かっているのか、外に向けられているかの違いだと思います。

 

この曲から聴ける厳しさ、孤独感は何とも表現のしようがありません。それをクライバーは的確に、そして無情に聴き手に届けます。

 

「未完成」に関しては、実は4つの楽章を完成してウィーンの楽友協会に届けたが、シューベルト自身が後半の2つの楽章の譜面の返却を申しでた、という経緯があったのか無かったのか色々言われていますが、私は”実は残りの2つの楽章は書けなかった”という説に賛同します。

 

シューベルトは第1楽章で孤独の淵に立ちます。第2楽章では自身の魂を慰めるかのような音楽を書きました。この時きっとシューベルトはベートーヴェンのような勝利のフィナーレを書くつもりは無かったと想像します。じゃあどんな結末を書いたらいいのか、多分書けないまま放置されてしまったんではないでしょうか。

 

シューベルトが書きたかった交響曲は「グレート」で結実します。

 

クライバーの魅力はどんなに聴かれ尽くしたかのような曲から、新鮮なものを取り出してくることです。

 

書き忘れましたが、オーケストラはウィーン・フィル。本当に心のこもった演奏を聴かせてくれています。

 

これは名演です。第2楽章をどうぞ。