フルトヴェングラー、クラシック音楽界での知名度ではカラヤンと双璧でしょう。そしてカラヤンと違うのはアンチが少ないこと。

 

またフルトヴェングラーは演奏中にテンポを恣意的に動かします。フルトヴェングラー以外の指揮者がこんな事をすれば即刻退場ものですが、フルトヴェングラーに限ってはそれが素晴らしいことと褒めれます。

 

私のフルトヴェングラーのベートーヴェン評としては、バイロイトの「第9」は出来損ない、しかし同時期のウィーン・フィルとのスタジオ録音は最高という感じです。

 

バイロイトの「第9」のことはいつか書くことになりますが、今回はウィーン・フィルとのスタジオ録音から「第7番」と「第1番」を取り上げ、何がそんなに良いのか改めて考えてみたいと思います。

 

🔷フルトヴェングラーのベートーヴェンに対しての個人的な感想

 

ここでフルトヴェングラーのベートーヴェンに対して個人的な感想を箇条書きにしてみます。

 

・1944年のウィーン・フィルとの「英雄」(ウラニア盤)は一過性のもの。1952年の「英雄」はクラシック演奏史における至宝。

 

・1951年のバイロイトの「第9」は最後の急激なアッチェランドが全てをぶち壊した出来損ないと思う。

 

・フルトヴェングラーは総じてスタジオ録音の方が出来が良い。埋もれていた放送録音のテープを掘り起こしてキャーキャー騒いでいるのは、ビートルズのライブ音源(海賊盤)で女性達の歓声を聴いて喜んでいるようなもの。歓声にかき消されたビートルズの音楽を聴いていない。

 

こんな感じです。

 

🔶「交響曲第7番」

 

 

これは困った。

 

実は聴く前は褒めちぎろうと思っていたのですが、どうもそうは行かなくなりました。

 

「英雄」は、その後カラヤンらの素晴らしい演奏を聴いた後でも、その価値は永遠不滅に輝いてる思うのですが、この「第7番」は違いました。

 

楽章毎に話を進めます。

 

第1楽章、理想的、特に後半でのコントラバスの強調はこうでないと。

第2楽章、問題なのはここ、ここまで重たくされるともう付いていけない。この楽章は天上の音楽のように響いて欲しいのに、人間ドラマに成り下がってしまっている。

第3楽章、なんでトリオをこんなに粘る必要があるのか?

第4楽章、この楽章でフルトヴェングラーもたまらず伝家の宝刀であるテンポ操作を解禁していますがバーンスタインがショスタコーヴィチの「第5番」のフィナーレでやったことと実質は同じです。バーンスタインも決して効果を狙った訳ではなく彼なりの考えがあったのです。テンポを速めれば聴き手は興奮します。しかもオケはウィーン・フィル、その気になった時の迫力ではニューヨーク・フィルじゃ相手になりません。

 

最後に聴き手は興奮のるつぼに追い込まれてしまう訳なのですが(私も同じです)、それだけでは最高の演奏とは言えないと思うのです。

 

じゃあ、お前が思う理想の演奏とは何だ?と問われても返答に困るのですが、ただ一つ言えるのはここまでのテンポの動かし方は作曲家の意図から外れているのでは無いかという思いです。

 

もちろん、演奏と作曲家の意図とは別物と考えなくもありませんし、それ以上に演奏を芸術として考えた時にはそれが当たり前、今は教科書的な演奏が氾濫しているのかもと思ったりもします。

 

今後もフルトヴェングラーを題材に演奏というものを考え続けてみたいと思います。ブログの表題に(1)と付けたのはそんな訳です。

 

🔶「交響曲第1番」

 

今回聴いているアルバムはフルトヴェングラーの「交響曲全集」のもの。

 

 

なかなか凝ったもので、一枚一枚にオリジナルLPと同じデザインが施されています。「第1番」は元々「第7番」だけのレコードだったものに追加された格好で収録されて、1952年のウィーン・フィルとのスタジオ録音です。

 

私は昨今の古楽器演奏ブームに乗っかるつもりは無いですが、「第1番」についてはガーディナーの演奏を聴いて目から鱗というか衝撃を受けました。

 

そこにはまだ「第2番」以降の交響曲を書く前のベートーヴェンが居ました。

 

現代の人は「第9番」どころかショスタコーヴィチの交響曲さえ知っている訳で、そう言った未来人の目でベートーヴェンを見ているのだと教えられた気分でした。

 

そうなるとフルトヴェングラーの演奏は重過ぎます。

 

色々フルトヴェングラー批判のような事を書いてしまいましたが、お詫びという訳でもありませんが、「第7番」のフィナーレを載せておきます。これで一旦忘れて下さい。