前回、ショスタコーヴィチの「交響曲第1番」から「第5番」を聴いてきてとても楽しかったので、今回も続けて「第6番」から「第10番」を聴いていきます。
🔶「交響曲第6番」
「交響曲第5番」で見事名誉回復ができたショスタコーヴィチが次に書いたのは、多くの意に反して抒情的なものでした。また楽章も3楽章と規模感も小さくなっています。
これはベートーヴェンの「運命」に対する「田園」のような関係と言われますが、ショスタコーヴィチも多分にそれを意識したんじゃないかと思います。
それは自分もベートーヴェンに匹敵する交響曲作家であるという自信の表れであったとも思います。
ショスタコーヴィチの緩徐楽章は素晴らしいものが多いですが、この「第6番」は第一楽章にその緩徐楽章が当てられいます。
バーンスタインはチャイコフスキーの「悲愴交響曲」の最終楽章がロ短調のゆっくりした額装で終わったことを引き継いでいると解釈しています。共に同じロ短調です。
もしかしたらそんなこともあったのかも知れませんが、ショスタコーヴィチはある意味自分の意に反して「第5番」のような重たい曲を書いたので、ここでちょっと軽くまとまりの良い曲を書きたかったのではないでしょうか。
ベートーヴェンが「第7番」と「第8番」を同時に書いたように。
フィナーレ最終部分です。
🔶「交響曲第7番”レニングラード”」
この曲はショスタコーヴィチの作曲家人生において一つの白眉とも言えます。
とにかくこの曲を書いた状況や、そのアメリカ初演を巡っての駆け引きなど話題性では随一です。
1942年、ショスタコーヴィチはプラウダ誌上で”私は自分の第7交響曲を我々のファシズムとの戦いと我々の宿命的勝利、そして我が祖国レニングラードに捧げる”と発言しています。更にショスタコーヴィチはナチスに包囲されたレニングラードに留まり、この曲を書いています。
そしてソビエト政府はこの曲の初演を国家的イベントと捉え、積極的なプロパガンダを行いましたし、ソビエトの連合国であったアメリカではこの曲の初演の権利を巡ってトスカニーニ、ストコフスキー、クーセヴィッキーの3者で争奪戦が起こったほどです。
そしてこの曲のスコアはマイクロフィルムに収めれら、カイロ経由でスパイ映画さながら極秘裏にアメリカに届けられました。
しかしこのような経緯が反ナチスのプロパガンダ音楽と見做され過小評価されてしまっていましたが、前回書いた「証言」という本では、ショスタコーヴィチが後日談として”スターリンによって破壊され、ヒトラーによってトドメを刺されたレニングラードを意味する”と語ったことが取り上げられた頃から評価が高まってきました。
この曲に「交響曲第5番」に似たような雰囲気を感じるとることは出来ますが、この2曲は全く違います。
「交響曲第5番」が自らの立場を立って書かれた、それに対し「交響曲第7番」はナチスに包囲され壊滅状態にあるレニングラードに立って書かれていることからも、それは明らかです。
その分、どこか散漫な所がありますが、その散漫ささえショスタコーヴィチの当時の心情を伝えるかのようです。曲は70分を超えます。
どこをとっても聴きごたえ十分なのですが、ここはやっぱり感動的な最終部分を。
🔶「交響曲第8番」
1943年に書かれています。
「第7番」「第8番」「第9番」は”戦争3部作”と呼ばれたりします。
「第7番」のフィナーレで勝利の願いを歌い上げたショスタコーヴィチですが、「第8番」では戦争の悲惨さを描きました。
この曲は1943年に一気に書き上げられました。当時戦局は好転していたこともあって、初演の際にはもっと明るい曲を書けないのかと批判され、1948年のジダーノフ批判の対象となり演奏が禁止されてしまいます。
ジダーノフ批判については次の「第9番」で詳しく説明します。
第1楽章は「第7番」の雰囲気を引き継いだようなショスタコーヴィチらしい美しい響きで始まりますが、軍隊の行進(戦争)があった後、延々と陰鬱な響き最後に冒頭の旋律が戻ってきます。
この第1楽章は傑作です。ベートーヴェンとマーラーの「交響曲第9番」のそれに匹敵すると思います。
第1楽章が素晴らし過ぎることもあって、第2楽章から第5楽章は付け足しのような感じがしてしまいます。もちろんショスタコーヴィチほどの人が書いたのですから音楽的には面白いのですが。
特に第3楽章が面白く聴けました。弦が機械的なリズムを刻むのは軍隊の行進を表すのでしょう、そして行く先々で攻撃をする様が描かれます。
続く第4楽章はショスタコーヴィチ得意のラルゴですが、この気分は第1楽章の繰り返しのように感じてしまいます。
この曲の批判の対象となったは続く第5楽章だったのでしょう。ここを丸く収めておけば良かったものを、ショスタコーヴィチがこの曲を書いた目的はそんな所に無かった。「第7番」でスターリン賞なるものを獲っているので、ちょっと周囲が見えなくなってしまったのかも知れません。
とにかくショスタコーヴィチはこの曲のエンディングで勝利を描きませんでした。
カラヤンはショスタコーヴィチは「第10番」しか演奏していませんが、グラモフォンのレパートリー会議には「第5番」と並んでこの曲も提案したそうですが、それらは叶いませんでした。
「第10番」で名演を残したカラヤンがこの曲を録音していたらと思うと、とても残念です。
さて、「第8番」のどの部分を載せておきましょうか。とっかかりとして第3楽章を選びました。通して聴いても短い楽章です。
🔶「交響曲第9番」
1948年2月10日、当局は芸術に対するイデオロギーの統制、つまり西洋的ブルジョアジーの禁止を公表します。この統制を推し進めたジダーノフという人の名前を取ってジダーノフ批判と呼ばれました。
ジダーノフ批判の対象は音楽のみにとどまらず、文学、絵画までに及びますが、中身はショスタコーヴィチへの批判だったと言われています。
きっかけは1945年に書かれた「交響曲第9番」に対し、スターリンが激怒したこと。
「第9番」と言えば誰でもベートーヴェンのあの「第9」を連想します。ショスタコーヴィチはそれまで大体2年間隔で交響曲を発表してきていますので、1945年には「第9」の名に相応しい大曲が発表されるものと期待されていました。
当のショスタコーヴィチも「第9」に相応しいものを書こうと周囲に漏らしていますし、書きかけてもいました。
そんな事から”次は合唱付きの大曲になるらしい”とまことしやかに噂が広まります。
しかしショスタコーヴィチはそのような曲は書けませんでした。そして発表されたのは周囲の期待を裏切るような30分に満たない小曲だったことがスターリンの激怒を買い、ジダーノフ批判につながっていきます。
曲は5つの楽章を持ちますが、確かにあっけないほどあっという間に終わってしまいます。
ちょっと分かりませんでした。
🔶「交響曲第10番」
このショスタコーヴィチを聴くという企画を始めたのは、この曲があったから。
ジダーノフ批判を受け、それまで大体2年おきに交響曲を発表していたショスタコーヴィチですが、流石に書けなくなってしまいました。
しかし、1953年にスターリンが死去し同時にジダーノフ批判も意味を為さなくなるという転機を迎えます。
スターリンの死去を知って一気に書き上げたと言われる「第10番」ですが、これは名作です。
カラヤンに”私は作曲をしないが、もししたとしたらこのような曲を書いただろう”とまで言わせてます。そしてカラヤンはベルリン・フィルとのソビエト演奏旅行ではショスタコーヴィチ、ムラヴィンスキーの前でこの曲を演奏しています。
ショスタコーヴィチは”こんなに美しく演奏されたのは初めてです”と褒めているのか貶しているのか分からない評価をし、ムラヴィンスキーに至っては”実に感動しました。しかしあなたは自身の演奏をレコードで聴くべきです”と意味深な発言をしています。
カラヤンの演奏を最高だと思う私からすれば、ムラヴィンスキーの発言はやっかみだと思って悔しさを紛らわすしかありません。
とにかく「第10番」からはスターリンの恐怖政治から逃れたショスタコーヴィチの希望や喜びが感じ取れます。
ショスタコーヴィチの交響曲でこんな印象を持てるものは他に知りません。
ショスタコーヴィチはこの曲に自身の名前を元にしたDSCH音型を刻み込んでいることもこの曲の意味を象徴しています。
またこの曲ではホルンが活躍することでも有名で「ホルン協奏曲」の様相さえ見せます。カラヤンは1976年8月のザルツブルグでドレスデン・シュターツカペレを指揮してこの曲を演奏していますが、選曲理由を”ドレスデンに素晴らしいホルン奏者がいるから”と語っています。
カラヤンはベルリン・フィルとこの曲を2度録音していて、もちろん素晴らしいのですが、このライブ録音はライブならでは熱気が感じられる独特の素晴らしさがあります。
まずはいつものようにゲルギエフ/マイリンスキーでフィナーレの終結部を聴いてください。音楽といえども”百聞は一見にしかず”です。
ちょっと長いですが一気に聴けると思います。
カラヤン/ドレスデンで同じ所を。ちなみにホルンは名手ペーター・ダム。映像が無いのが本当に残念ですが、ドレスデンの重量感のある響き、カラヤンの棒捌きの見事さが感じられると思います。