今回の”私の視聴室”はショスタコーヴィチの交響曲を取り上げます。
ショスタコーヴィチが生きた時代の真ん中にスターリン体制の誕生と終焉があったため、正に時代に音弄された音楽家だったと言えます。
一方、同世代のプロコフィエフが早くから海外に活動の場を求めてアメリカへ亡命してしまったのに対し、ソビエトに留まったショスタコーヴィチは祖国愛の強かった人だったんだと思います。
そんなショスタコーヴィチの15の交響曲を3回に分けて聴いていきたいと思います。
🔶「交響曲第1番」
1925年、レニングラード音楽院の卒業作品として書かれたものですが、前衛的な趣味を持ちながらすでにショスタコーヴィチらしい音楽性も聞こえてきます。
卒業試験では2台のピアノ用に編曲されたもので演奏していますが、試験官らの反応は概ね良好であったものの、グラズノフから序奏部の書き直しを見本となる和声付まで示され要求されてしまいます。
翌年のオーケストラでの初演はグラズノフの要求を無視し行われましたが、熱狂的な大成功でした。
ショスタコーヴィチは”モーツァルトの再来”とまで賞賛されています。
30分ほどの曲なので全曲を通して聴いていただきたい所ですが、ここには第4楽章の最後の部分を載せておきます。
演奏はゲルギエフ/マイリンスキー歌劇場管弦楽団のライブ動画から。
🔶「交響曲第2番”十月革命に捧げる”」
1927年、ショスタコーヴィチは国立出版社からの委嘱により”十月革命10周年記念日を讃える”ため書かれています。
音楽院を卒業したばかりのショスタコーヴィチが作曲家として国家に認められる存在であった証です。
ショスタコーヴィチはやりたい放題で、その前衛性を全面に打ち出した作品です。単一楽章で20分足らずの長さです。
単一楽章とはいえ、内容的には4つの部分に分けられ最後はレーニンを讃えるシュプレヒコールで終わります。
しかし単なるお祭り騒ぎ的な音楽になっていない、どころかそれを前衛的な作風でやってしまうショスタコーヴィチの自信に満ちた作品です。
ここまでの激しい前衛性は後の作品では見られません。
第3部に当たる部分で”ウルトラ対位法”と呼ばれる27声部が好き勝手なパッセージを吹いたり弾いたりしている部分があります。ヴァイオリン・ソロが入るところからがそうです。嵐のような喧騒?を経て音楽は静まっていきます。
これもゲルギエフ/マイリンスキー歌劇場管弦楽団のライブ動画にしたかったのですが、この曲の動画が見つからなかったので、ヤンソンス/放送交響楽団で。
この前衛性も意外と面白くありませんか?
🔶「交響曲第3番”メーデー”」
「第2番」は委嘱されたものでしたが、1929年に今度は似たようなテーマでショスタコーヴィチ自身の着想で書かれています。やはり単一楽章で30分程度の長さ。「第2番」同様合唱を伴います。
1929年というのはスターリンがその権力を確立した年で、スターリンは新たな経済政策を打ち出しソビエトを農業国から工業国へ導きその後の経済大国への口火を切ったという役割も果たしていますから、もしかしたらショスタコーヴィチもそれを歓迎していたのかも知れません。
ショスタコーヴィチは、その前衛性を控えめにして正にプロパガンダ的な性格の音楽を書こうとしています。
「第2番」共々、そのプロパガンダ的な性格のため西洋諸国で演奏される機会はほとんどありません。
しかしモーツァルトの再来とまで言われた人です。この曲にもショスタコーヴィチの才気が溢れていると思います。
フィナーレで合唱が登場します。
🔶「交響曲第4番」
この曲こそ時代に翻弄された作品でした。
ショスタコーヴィチはそれまでの集大成となる交響曲を書くべく、1年近くをかけ1936年に完成されます。
それまで前衛性こそ革命の証と持ち上げられてきましたが、スターリンは西洋的ブルジョワジーへの弾圧を行います。ショスタコーヴィチの知人・友人までもがその粛清の対象となっっていました。
ショスタコーヴィチ自身も1936年突如として、彼の書いたオペラやバレエ音楽が”荒唐無稽である””偽物のバレエ”とソビエトの機関誌プラウダで批判されるに至ります。
かつて”モーツァルトの再来”とまで言われた人が、一気に反逆者の烙印を押されたようなものです。
そんな中で「交響曲第4番」を発表しようとしているショスタコーヴィチは元来ノンポリだったのか、楽観的な人だったのでしょう。
ショスタコーヴィチが過激な曲を書いているらしいという噂が当局の耳に入り、ある日のリハーサルの後、役人が訪れ楽屋で話した後、”交響曲は演奏されない、当局の執拗な忠告により引っ込められた”と自ら撤回する形で予定されていた初演は取りやめとなりました。
ところで作品自体そんな扱いを受けるものだったのでしょうか。
この曲はショスタコーヴィチの交響曲の中でも最大規模の楽器編成を持ち、3楽章構成で演奏時間は60分とそれまでよりかなり長くなっています。
今聞いてみれば純粋に音楽的で、取り立てて騒ぎ立てるようなものとは感じられませんが、当時の世情はより国民的な音楽が求められていたということでしょう。
全体に取り止めの無さが感じられますが、その取り止めの無さがある一つの流れの中で起きていることは聴いていれば感じられます。ショスタコーヴィチが集大成として練り上げてきただけのことはあります。
マーラーの影響を受けた曲と言われますが第3楽章の始まり方、ティンパニの連打に乗ってファゴットが旋律を奏でるところなんか、マーラーの「交響曲第1番」のパロディでしょう。マーラーはコントラバスでしたが。
この楽章にはモーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」からのパロディが出てきますが、モーツァルトはピッコロにその断片を吹かせるだけといったショスタコーヴィチの品の良さのような所が出ています。それに比べれば「カルメン」はもう少しはっきり出てきます。
品の良さと書きましたが、この曲全体に品の良さのようなものを感じます。正にモーツァルトの再来といった感じでしょうか。
この曲は有名な「第5番」「第7番」といった路線とは全く違う趣がありますが、シベリウスで言えば「交響曲第4番」のような存在だとも言えます。
フィナーレ最終盤です。
お聴きの通り曲は静かに閉じます。
もしこれがフォルテッシモで終わっていれば当局も受け入れたのではないかと思えます。
🔶「交響曲第5番”革命”」
いよいよ「第5番」までたどり着きました。ちなみに”革命”という呼び名はショスタコーヴィチが付けたものでは無いことと、近年のこの曲への解釈の変貌とともに今では廃れてしまいました。
兎にも角にも、ショスタコーヴィチは自身に降りかかる非難に対しこの曲を持って答えた訳です。
「第4番」までと違い、古典的な形式美を持った交響曲となっています。この曲はどこをとっても耳馴染みがよく、第3楽章ラルゴの美しさなどショスタコーヴィチ入門に最適です。
この曲は作曲家が自身の名誉回復のために書かれてはいますが、1979年にソロモン・ヴォルコフが「証言」という本を発表したことでその評価が一変してしまいます。
その後「証言」の中身自体に疑念が持たれるようになってしまいましたが、この本はこの曲の、特にフィナーレの演奏解釈に大きな影響をもたらしました。
この曲のフィナーレは革命讃歌として威勢よく高らかに歌い上げるものとされてきましたが、「証言」の中でショスタコーヴィチ自身が”ここは強制された喜びなのだ”と語ったとされると、その演奏のテンポがゆっくり引きずるようなものこそ正当だと考えるようになりました。
つまり、バーンスタインのような演奏は古いという訳です。
私のようにこのアップテンポのフィナーレに感動しまくっていた世代としては、ちょっと残念ではありますが、新しい解釈による演奏も確かに説得力があります。
ゲルギエフ/マイリンスキーでフィナーレの最終盤をお聴きください。
ことさら「証言」を意識したテンポにはなっていませんが、これぞ王道といった感があります。
参考までにバーンスタインとニューヨーク・フィルの熱狂的な演奏も面白いですよ。東京公演のライブ動画です。
今回はここまで。次回は「第6番」から「第10番」の予定です。