クラシック音楽のレコードには、いわゆる名盤が多数存在します。今回は、その中で代表的な3枚と取り上げてみたいと思います。
取り上げる理由は、”本当に他を圧する名演なのか?”という印象があるからで、改めてじっくり聴いてみたいと思ったからです。
🔶ブルックナー「交響曲第8番」 クナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィル
1963年と古い録音ながら、熱烈なファンを持つ宇野功芳氏が絶賛したことで広く知れ渡ることになった録音です。
今回youtubeで聞いたので音源はCD化されたものだと思いますが、音質はかなり聴きやすくなっているように感じました。
響きはかなりデッドで各楽器の音がくっきり出ていることもあって、冒頭から何かありそうな雰囲気満載です。
聴き進めると、何箇所も聴きなれない響きが聴こえ”あれっ?”と思います。
それもそのはず、クナが使っているスコアは指揮者のシャルクが演奏効果が上がるように改編した版を使っているためです。
吉田秀和氏は1950年代にヨーロッパを訪れ、今聴くべきはクナッパーツブッシュが指揮するワーグナーとブルックナーだと聞かされ、正にそのクナッパーツブッシュとウィーン・フィルでブルックナーの「交響曲第7番」を聴いたがさっぱり分からなかったと書いています。
音楽プロシューサーのカルショウが「指輪」の全曲録音を企画し、指揮者にクナを指名したものの録音嫌いなクナが受け入れなかったためやむなくショルティを持ってきたのは有名な話。
このレコードは生演奏の一回限りの演奏にこそ意味があると考えたクナが、ミュンヘンでのコンサートを終えた直後、どう説得されたのか恐らく一発取りで録音されています。
確かに説得力のある演奏だと思いますが、この曲の数多の録音が生まれた今となっては”かつてこういう演奏もあった”という記録的な意味合いの方が大きいのでは無いかと感じます。
何と言ってもシャルクの改悪版を使っている点が、大きくマイナスです。
🔶ベートーヴェン「交響曲第6番”田園”」 ベーム/ウィーン・フィル
1971年の録音。
ベームはウィーン・フィルとベートーヴェンの「交響曲全集」を出していますが、評判もセールス的にもはさっぱりでした。
しかし、その中でこの「田園」だけはどういう訳か音楽評論家たちがこぞって絶賛しています。
”田舎に到着した時の愉快な感情の目覚め”と題された第一楽章、ベームで聴くと全くそんな感じはしません。
まるでこれから修行に山に分け入っていくかのような厳しい演奏です。
これがなぜ名演なのか?
ベートーヴェンの交響曲の中でも、この「田園」はその後の標題音楽への発展につながる一風変わったものなので、中々指揮者の個性が出にくい曲だと思います。
また、この曲は同時に作曲された「運命」共々、ベートーヴェンのソナタ型式の双璧とも言われています。
ベームは正に「交響曲」として演奏していますが、ウィーン・フィルもそれにしっかり応えています。
第一楽章の最後に出てくる、ナイチンゲール、ウズラ、カッコウの鳴き声もどこか怪鳥のようだし、嵐の楽章などはあのベームが、と思うほどの壮絶さ。
同時期にベームはウィーン・フィルとこれも素晴らしく引き締まったブルックナーの「交響曲第4番」を録音していますが、この時期のベームこそ本来のベームのスタイルの集大成だったのだと感じます。
「田園」としてこれがベストかどうかは分かりませんが、演奏という行為における指揮者とオーケストラの見事な結実だと言えます。
何故、他のベートーヴェンの交響曲は評判にならなかったのか気になるところです。
🔶ベートーヴェン「交響曲第9番”合唱付き”」
フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団
「バイロイトの第9」として余りにも有名なレコードです。
ワーグナーが自らの作品を演奏するために建てたバイロイト祝祭歌劇場。毎年恒例の音楽行事だったバイロイト音楽祭が戦争による中断を余儀なくされ、1951年再開されることとなります。
その記念すべき開幕演奏会がフルトヴェングラー指揮のベートヴェンの「第9」でした。確か吉田秀和さんだっと思いますが、”ワーグナーだけじゃ客を呼べないから”と書いてました。
事前の宣伝も盛んに行われたことでしょう。EMIもウォルター・レッグを筆頭に録音スタッフを送り込み、今や伝説的な指揮者フルトヴェングラーのベートーヴェンが聴けるとあって、観客席は異様な期待感に満ち溢れていたことでしょう。
普段オーケストラピットの中に収まる形ですが、この時ばかりはオーケストラはステージ上に配置されました。
そんな中、演奏が始まります。
日頃、会場や聴衆によって演奏は違ってきて当然だと語っているフルトヴェングラーが、その期待感に応えようとしたことは想像に難くありません。
確かに冒頭から充実した響きです。
バイロイト祝祭管弦楽団は、もちろん臨時編成とはいえウイーンやベルリンといったレベルの腕利きの音楽家たちが集まっているので心配はありません。
しばらく落ち着いた彫りの深い素晴らしい響きに聴き入っていると、突然クライマックスに向け駆け上がるかのようにテンポを速めます。その場で聴いているいたらさぞ気分も高揚したかと思いますが、こうやってスピーカーを通して聴いているとちょっとやり過ぎかもと感じます。
フルトヴェングラーのこうした恣意的なテンポの増減には否定的なのです。
かつてはウラニア録音として有名な1944年の「エロイカ」に夢中になったものですが、今は1952年のスタジオ録音の方が数段素晴らしいと思っています。
第2楽章、実は今回改めて聴いて一番感心した楽章です。
この楽章は第1楽章と第3楽章をつなぐ橋渡し的な楽章と簡単に考えていましたが、フルトヴェングラーとオーケストラの充実した響きで聴くと、素晴らしい第1楽章に引けを取らない音楽だと感じます。
第3楽章は明らかにベートーヴェンが最終楽章で否定する天上への憧れの音楽として書いています。
この第3楽章の演奏を絶賛する言葉をよく目にしますが、私にはそれほどのものとも聴こえませんでした。
この演奏を録音したレッグが終演後のフルトヴェングラーに向かって、「それほどの演奏ではなかったですね」と言ったのも分かるような気がします。
しかし、この演奏を生で聴いた吉田秀和氏はこの日の演奏をフルトヴェングラー体験の最高潮だったと語っていて、第3楽章が素晴らしかったとも言われているので、多分私の聴き方がまだまだなのでしょう。
とはいえ、やはり聴きものは第4楽章。
”喜びの歌”のテーマをコントラバスが聞こえるか聞こえないかの音量で始めるところはフルトヴェングラーの専売特許のようなものですが、やっぱり効果的です。
この演奏は、ステレオ録音もされたとどこかで読んだ覚えがありますが何か問題があったのか発売されたものはモノラルでした。
流石に音質的には古くなってしまったので、せめてステレオで聴きたかった。
生でこの演奏を聴けた人たちが本当に羨ましい。
感動の音楽が続き、いよいよフィナーレ。音楽はテンポをグッと落として合唱団が歌い切ると、突然オーケストラだけが駆け抜けるようにクライマックスに達して終わります。
問題はここです。
フルトヴェングラーは突如一人音楽に酔ったかのようにタクトをメチャクチャに振り回します。オーケストラは必至の形相でタクトについていこうと猛スピードで吹いたり、弾いたりしますがもうアンサンブルどころではありません。怒涛の勢いのまま和音も揃っていません。
初めてこれを聴いた時は驚き、感動したものです。
しかし、後日フルトヴェングラーの他の録音を聴いた時も同じことをやっていて、”なんだこれもフルトヴェングラーの専売特許だったんだ”と知った途端、目が覚めた思いがしました。
まあ、フルトヴェングラーの呪縛がスッと解けた感じです。
繰り返しますが、これを生で聴いていたら居ても立ってもいられないほど感動したことは間違いありません。
最後の部分です。
いかがでしょう?