この”私の視聴室”で度々紹介するようになったシェーンベルクですが、何故こんなにも引き付けられるのか、そのヒントを得ようと図書館で一冊の本を借りて来ました。

 

その話も含めて、今回の”私の視聴室”ではシェーンベルクの「グレの歌」を聴いてみようと思います。

 

借りて来たのは、音楽の友社の「作曲家別名曲解説」というシリーズもので、その中の「新ウィーン楽派」という一冊です。

 

 

まだ読み始めた、というか小説のような読み物では無いのですが、ばかりですが、シェーンベルクが音楽とは全く無縁な小さな靴屋の息子として生まれ、小さな銀行に就職しながら独学で音楽を学んでいきます。

 

ようやく音楽の道が開けたと思って銀行を辞めて音楽に専念し始めた途端、自作(あの「浄夜」を含めた)がウィーンの音楽界から断固とした拒否をされ、そこからシェーンベルクの”闘い”が始まり、それは生涯止むことはなかった。という部分を読んで腑に落ちた気がしました。

 

シェーンベルクの音楽の向こう側、というか底流に流れているものの正体は”怒り”であり”闘争”なんじゃなかろうかと。そして、それが真っ直ぐ聴く人に届いているのだと。

 

”浄夜”のようなロマンティックな曲にすら甘美さを微塵も感じないのは、そのためだったのかも知れません。

 

今回、聴く「グレの歌」は、まだウィーンの音楽界から”NO”を突きつけられる前に書かれているため、「浄夜」同様、後期ロマン派の香りがプンプンする、つまり聴きやすい音楽になっている上に、古今のあらゆる作品の中でも最大の編成をもつオーケストラによる大曲であるため、ダイナミクスの幅が広く、オーディオ的にも楽しめます。

 

そして後のシェーンベルクから聴こえてくる、”怒り”や”闘争”とは無縁の音楽で、ただただロマンティックな雰囲気に満ちています。

 

あいにく手持ちの音源もなく、また頼りの図書館にも無かったので、youtubeで聴きました。アバドとウィーン・フィルの録音です。

 

 

🔷「グレの歌」

 

シェーンベルクがこんな音楽を書いていたとは驚きました。音楽界に自分の存在をアピールしようとする若きシェーンベルクの血気盛んな姿が見えるようです。

 

この曲は、前にも書きましたが作曲したのは「浄夜」を書いたあたりですが、オーケストレーションの完成は随分経ってからのこと。この曲のウィーンでの初演は大好評で迎えられましたが、それまでのウィーンの仕打ちのため、シェーンベルクはアンコールを拒否しています。

 

この大曲は、デンマークの詩人ヤコブセンの「グレの歌」という長詩に音楽を付けたもので、3部に分かれ、2時間に渡ります。

 

静かに始まる前奏から、再び前奏で使われた和音で曲が閉じられるまで、その間もちろん対訳なしで、一気に聴いてしまいました。

 

曲は管弦楽による長めの前奏に続いて、テノールとソプラノの独唱が前奏の気分を引き継いで穏やかに始まります。こんなにも平安な音楽をシェーンベルクで聴けるとは驚きです。

 

そして曲は巨大な編成のオーケストラの力を見せつけるかのような盛り上がりを見せます。その盛り上がりはワーグナーを聴いているかのようです。反面、ワーグナーの押し付けがましさが無い分、私には好ましく聴こえます。

 

1時間にも及ぶ長大な第1部が終わると、短いながら起伏の大きい第2部を挟み、第1部と同等な規模を持つ第3部に入ります。

 

しかし最大の危機ものは、第3部です。オーケストラは荒れ狂い、一気にオペラテックな音楽になります。

 

ヴェルディをもっと激しくしたような音楽。

 

本当に素晴らしい音楽です。そして最後、ソプラノの特徴的なレチタティーヴォに続いては合唱を伴った壮大な盛り上がりを見せます。その部分だけでも聴いてみて下さい。レチタティーヴォは6分ほどでフィナーレの音楽に続きます。

 

フィナーレの壮大さは、マーラーも一歩及びません。

 

 

前にも書いたようにこの曲は大好評を持って迎えられたのですが、シェーンベルクは方向転換し、やがて十二音技法の確立という音楽史上に残る業績を残すことになる訳ですが、結果から見るとその業績は一過性のものに過ぎず、多分にシェーンベルクが期待したほどの成果は生み出せなかったんじゃないでしょうか。

 

「グレの歌」のような音楽を作り続けていたら、また名曲が生まれたのでは?という可能性を思うと、少し残念な気持ちです。