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前回ハイドンの交響曲を聴いてみて、時間もかかって大変でしたがとても楽しい時間を過ごせました。ハイドンを聴きながら、もう”次はベートーヴェンだな”という思いが段々と強くなってきました。
今回の”私の視聴室”では、ベートーヴェンの交響曲を、私の好きな演奏で聴いていこうと思います、
🔷交響曲愛1番 ジュリーニ/ミラノ・スカラ座管弦楽団
ジュリーニが最後にベートーヴェンの交響曲全集に取り組んだミラノ・スカラ座との一枚です。音楽の基本は”歌”にあるということを強く打ち出した演奏になっています。
このCDは「第7番」とのカップリングでどちらを取り上げようかと悩みましたが、”一人の指揮者は一曲だけ”と自分で縛りをつけたので、「第1番」で取り上げましたが、「第7番」も素晴らしいです。
この曲の第一音は誰の演奏で聴いても、ここから始まる9曲の山々を思い起こさせます。
ジュリーニの「歌」はこの序奏から明らか、ゆったりと進みます。そして続く遅めながら厳しさを感じさせるアレグロとの対比の見事さ。30歳の若書きとは思えない充実した音楽を聴かせてくれます。
本当に素晴らしい。
🔷交響曲第2番 ガーディナー/オルケストル・レヴォルーショナル・エ・ロマンティーク
ベートーヴェンの交響曲と言っても、すべての曲に”これで決まり”というお気に入りがある訳ではなく、この「第2番」もそういう曲です。
ここではガーディナーに登場してもらいます。ガーディナーの全集はどなたが聴いてもその新鮮な響きに驚かれることだと思います。そしてその新鮮さは、ガーディナーの取る速いテンポに起因します。
ベートーヴェンは当時発明されたばかりのメトロノームによる速度指定をしていますが、大体において速すぎるので間違いだろうと無視されて来ていました。
それに一石を投じたのがカラヤンで、1970年代に何度目かの全集を出した時、”「英雄」はメトロノーム指定に従ったんだ”と自慢げに語っています。”自慢げに”というのは当時「英雄」をメトロノーム指示に従って”音楽的に”演奏するのは無理というのが衆目の見るところだったからです。
ガーディナーは全9曲を速いテンポで駆け抜けます。この「第2番」は意外にゆったりした序奏にちょっと期待外れ感がありますが、アレグロに入ってから一気にギアチェンジします。
ガーディナーの「オルケストル・レヴォルーショナル・エ・ロマンティーク」という長たらしい名称は、マリナーの「アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズ」と並んで記事を書くのが大変な団体ですが、「幻想交響曲」で聴かせたように、古楽器団体とは思えない厚みのある響きを聴かせてくれます。
フィナーレの爆発は、当然のことながら聴き物です。
🔷交響曲第3番「英雄」 フルトヴェングラー/ウィーン・フィル(1952)
「英雄」は同じフルトヴェングラーのウラニア盤として有名な1944年の録音や、先に挙げたカラヤンとベルリン・フィルなどの強豪を抑え、フルトヴェングラーが1952年にウィーン・フィルとスタジオ録音したものがベストだと思います。
ちなみにこのCDは、各曲初出の時のレコードジャケットのデザインを使った趣味性の高い全集からの一枚です。
モノラルながら、フルトヴェングラーの聴衆を前にした臨場感あふれる演奏とはまた別の魅力を知ることができます。
一音一音を大事に積み上げていきながら、全体の見通しを忘れない指揮者の展望の良さは、オーケストラの自発性と相まって奇跡的な演奏を成し遂げています。
もちろんフルトヴェングラーですから多少のテンポの揺らぎはありますが、「第九」のフィナーレのようにマイナスに働くことはありません。
この録音を、”フルトヴェングラーの忍耐強さに涙が出る”と評した方がいました。その方の本意は分かりませんが、この演奏を聴いていて、なんともない箇所で自然に涙が出てくるような時があって、そういうことかも、と分かったような気がします。
恐らく1944年のウラニア盤を初めて聴かれる方は、その圧倒的な迫力に驚き、それを最上と考えると思います。私もそうでした。
しかし、私の経験から言うと、ウラニア盤から得る驚きは何度も聴くうちに無くなってしまいます。そしてその驚きが無くなってしまうと、この1952年の録音の素晴らしさが分かってきます。
フルトヴェングラーのベートーヴェンの最良は、戦後復帰第一回目の1947年5月27日のコンサートでの「運命」でもなく、「バイロイトの「第九」でもなく、この1952年の「英雄」で聴けると確信しています。
🔷交響曲第4番 クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団
この曲はクライバーが得意にしていて、なるほど素晴らしい演奏なのですが、”一人の指揮者は一曲まで”と自分で縛りを入れたので、次の「運命」で登場させるつもりのクライバーには辞退してもらって、ここではクレンペラーに登場してもらいます。
各曲、お気に入りの演奏をと書きましたが、このクレンペラーは別で、初めて聴くようなものです。クレンペラーではバッハの「マタイ受難曲」が素晴らしかったという印象です。
聴き始めてすぐ、スッキリした響きで各楽器の響きが明瞭に聴こえる見通しの良さに気がつきます。そして重心の低さ、時折効かせる抉りの鋭さが魅力なんだと思います。
クライバーの弾けるような演奏とはまた違ったじっくり聴かせるタイプですが、これはこれで素晴らしい演奏です。
🔷交響曲第5番「運命」 カルロス・クライバー/ウィーン・フィル
「運命」と「第九」はそれを聴き始めると、昔まだ自分の再生機器を持たない中高生の頃、父親のオーディオでよく音楽を聴いていた時のその部屋の匂いが蘇って来ます。そこでは色々な曲を聴いたはずですが、なぜかこの2曲だけでそういうことが起こります。
そして「運命」には、私が学生オケをやっていた時の一生消えない苦い記憶があり、その記憶のせいで聴くのを躊躇することさえあります。
そんな甘い記憶と苦い記憶が混ぜこぜになった、私にとって特別な曲です。
それはともかく、この曲にはお気に入りがあり、それがこのカルロス・クライバーがウィーン・フィルを指揮したもので、音楽雑誌などでも高評価を得続けています。
この演奏の魅力は”何時聴いてもその新鮮さを失わない”ということに尽きます。カルロス・クライバーが持て囃されたのは当然でしょう。
カラヤンが面白いことを言っています。”奴は天才だが、冷蔵庫が空にならないと仕事をしない”。そんな趣味性がクライバーの魅力です。
”何度聞いてもその新鮮さを失わない”と書きましたが、今回改めてその認識が間違っていないとを確信しました。
🔷交響曲第6番「田園」 ワルター/コロンビア交響楽団
ご存知、「標題音楽」の元祖となった名曲。
名曲と書きましたが、”ベートーヴェンの交響曲のベストは?”と問われて、”「英雄」!”と答えるのに一瞬の躊躇もありませんが、二番手にこの曲を挙げても何の不思議もありません。
「運命」や「第九」、それに「第7番」はどうした?とツッコミが入りそうですが、今はそう考えています。
ただ、これは!、という演奏が挙げられません。誰の指揮で聴いても面白く聴けてしまうし、標題音楽ということでベートーヴェン特有の”暗から明へ”の図式も当てはまらないことの演奏を選ばない理由だと思います。
この曲ではワルターに登場してもらいます。ベーム/ウィーン・フィルと並んでこのワルター/コロンビア響の録音もこの曲の定盤の位置を維持し続けています。
と言っても、私はあまり聴いてきていないので、今回新鮮な気持ちで聴いてみました。
演奏が始まってまず、いつものコロンビア交響楽団(と言っても常設オケではありませんが)の音と明らかに違います。少し艶が乗ったような感じでドイツのオケのような響きがします。もしかしたらリマスタリングされているのかも知れませんが。
そして、ワルターの無理のない音楽運びがこの「田園」を極上の音楽に仕上げていきます。高評価を受け続けるのも納得です。
🔷交響曲第7番 ライナー/シカゴ交響楽団
吉田秀和さんがこの曲を”たわわに実った麦の稲穂のよう”と評していますが、正にベートーヴェンの交響曲の完成を見るような曲です。
ベートーヴェンはその後、「第九」でロマン派の世界に片足を踏み込ませます。
だからこの曲には名録音も多く、選びきれません。
ということで、この曲でも思い切って普段聴かないライナー盤を持って来ました。このコンビはバルトークやリヒャルト・シュトラウスで名演を聴かせてくれていますから、何となく想像はつきますが、どうでしょう?
これもワルターの「田園」と同じく、バルトークやリヒャルト・シュトラウスで耳馴染んだこのコンビの音と違います。こちらはXRCD2というもの(いまだに理解できていませんが)でリマスタリングした、と解説にありました。
かと言ってコロンビア響の時のようにドイツ風の響きにならないのは、シカゴ交響楽団がはっきりと自分たちの音を持っていたからだと思います。
本音を言うと私はこの曲はウィーン・フィルで聴きたいと思っているので、このコンビで時折耳を刺すような高音が聴こえてくるのは正直辛いと思ったりします。
この演奏を聴いて”リトマス紙のようだ”と感じました。
ライナーは職人に徹していて、自分の個性を出そうなんて爪の先も考えてないように聴こえます。徹頭徹尾正しい演奏、とでも言ったらいいのでしょうか。
だから、その人が聴きたいように聴こえます。その時の気分が反映されると言ってもいいかも知れません。だから”リトマス紙”。
フォナーレ、音楽はどんどん盛り上がっていきますが、ライナーは厳しい目つきでタクトを淡々と振っているような感じ。
興味深い演奏です。
🔷交響曲第8番 カザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団
この曲も、これはという演奏を知りません。
面白そうなCDがあったので、それを聴いてみることにします。老カザルスが、プエルトリコで開かれるマールボロ音楽祭で指揮したもの。
この時カザルスは80歳に手が届く年齢ですが、その演奏の熱さは並大抵のものではありません。
昔、バッハの「無伴奏チェロ組曲」で聴かせた激しさが失われていないどころか、ますます血気盛んなことに驚きと敬意を感じない訳にはいきません。
何度も聴いてみたくなる演奏とは全く別物ですが、一度は聴いてみるべき演奏です。
そこに一人の巨人がいます。
🔷交響曲第9番「合唱」 カラヤン/ベルリン・フィル(1984)
最後は御大カラヤンに登場してもらいます。
この曲についてはフルトヴェングラーのいわゆる”バイロイトの第九”に触れない訳にはいきませんが、結論が言って私は好きではありません。
理由は曲の最後も最後の急激なアッチェランドが理解不能だからです。一時はそのオーケストラがちゃんと弾けてない速さに、フルトヴェングラーも演奏に熱が入って思わずタクトを速めたのだろう、と好意的に思った時もありましたが、他の演奏でも全く同じだったので、何だかワンパターンか、と、何かマジックの種が見えたような気がして、一気に熱が冷めました。
この録音のためバイロイトに盛り込んでいた敏腕プロデューサーのウォルター・レッグが、”ドクター、それほど良い演奏ではありませんでしたね”と終演後直後のフルトヴェングラーに声をかけたそうです。
カラヤンとベルリン・フィル。どんな曲でも困ったらこのコンビのものを選んでおけば間違いのない安心感が持てる存在です。
もちろんこの「第九」も素晴らしい。ただこの録音、第二楽章のティンパニの音程がはっきりズレて聴こえるのはどうしたことでしょうか?
第三楽章のアダージョはカラヤン独特の世界でしょう。ゆっくりしたテンポでベルリン・フィルの美しい弱音を最大限に活かした美し響き。この美しさにはカラヤンが一躍有名にしたとも言えるマーラーのあの「アダージェット」も色を失いそうです。
第四楽章はベルリン・フィルも持てる能力を解放し、ウィーンからわざわざ呼び寄せたウィーン楽友協会合唱団も見事な合唱を聴かせます。もちろんソプラノのジャネット・ベリー以下の独唱陣も悪い訳がありません。
壮大な曲想を持つ「第九」には相応しくないかも知れませんが、それでも”美しい演奏”だと言いたい。
「田園」の項で、「第九」を抑えてと書きましたが、こんな演奏を聴いたら考えも変わりそうです。
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今やブルックナーやマーラーにその位置を奪われたかのような感のあるベートーヴェンの交響曲ですが、やはりその価値は不変ですね。