フリッツ・ライナーという指揮者がいました。トスカニーニに並んで独裁者として有名です。

 

リヒャルト・シュトラウスやバルトークというとかつてはカラヤンばかり聴いていましたが、最近はもっぱらライナーとシカゴ響の方が身近に感じられます。

 

カール・ベームもそうですが、ライナーの指揮に惹きつけらるようになったのは、今までの反動なのかも知れませんが、うまく説明できません。

 

そういうあやふやな思いで、ライナー/シカゴのベートーヴェンの交響曲を聞いてみました。「運命」「田園」「第7番」のCDです。

 

🔸ベートーヴェン「交響曲第5番”運命”」

 

 

1959年の録音をリマスタリングしたCDのようで音は予想以上に鮮明です。

 

第一楽章冒頭、有名な運命動機の出だし。よく知られているようにこの最初の小節は8分休符で始まります。つまり”ウン、ジャジャジャジャーン”、指揮者が棒を振り下ろした一瞬後にオーケストラがフォルテッシモで最初の音に突入しろ、というベートーヴェンの指示です。

 

だから聴く側もオーケストラの第一音に期待し、多くの指揮者がそれに応えています。しかしショルティもそうですがハンガリー系の指揮者で聴くとまるで最初の休符など無かったという風にあっさりと開始します。

 

これだけで聴く気を失ってしまうのですが、不思議とライナーにはそれを感じません。

 

そして、この”じゃジャジャジャーン”は楽章中で3回登場しますが、大体の指揮者は登場する度にテンポを落とします。フルトヴェングラーが最たる例で、カラヤンだってはっきり分かるように落としてます。この前ショルティのライブを聴いた時もそうで、そのフルトヴェングラーに近いような落とし方にびっくりしました。

 

私はこのテンポを落とすやり方にはちょっと違和感があります。その点ライナーは首尾一貫したテンポを守ります。だからライナーが素晴らしいとはなりませんが・・・。

 

「運命」を聴いて感じたのは、この人は楽譜を忠実に音化しようとしていること。そういう演奏はどこか無味乾燥になりそうですが、ライナーは全くそうなりません。

 

その理由は、多分オーケストラの響きにあります。

 

ショルティ指揮のシカゴ交響楽団の響きは全く好きではありませんが、ライナーが指揮したシカゴ交響楽団の音は全く別物に聴こえます。

 

ライナーがオーケストラに求める音と波長が合うんだと思います。まるでドイツのオーケストラのような重厚な響き。

 

🔸ベートーヴェン「交響曲第6番”田園”」

 

”田舎に着いた時の愉快な気分”とベートーヴェンが記した出だし。ライナーとシカゴは思わぬ柔らかな響きを聴かせてくれます。

 

各楽器の音を多層的に響かせるやり方は「運命」と同じ。ライナーはことさら説明的な演奏などしません。楽譜を忠実に音にしていくだけ。その淡々とも言える響きから優しさが感じらる奇跡。

 

これがライナーの求めたアンサンブルの究極というものだと思います。

 

ライナーは、全米で初めてオーケストラに組合を作らせたほどの横暴ぶりを見せていますが、それがこの音と引き換えにライナーが選んだ道だったのでしょう。

 

「嵐」の場面、ライナーは激しくティンパニを叩かせますが、その何とも音楽的なこと!

 

最後の「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」。ライナーではなぜか寂しげに聴こえます。ベームの1959年のブラームの「交響曲第1番」で聞こえてきたものがここにもありました。

 

ライナーの「田園」、素晴らしかった。

 

🔸ベートーヴェン「交響曲第7番」

 

 

あの哀愁を帯びた第二楽章、ライナーは予想通り淡々と運びます。しかしだからこそ感じ取れるものがあります。それは聴く者に託されます。

 

この”潔さ”。

 

多分、私は今、そこに轢かれているのだと思います。

 

ライナーはオーケストラには厳しかった方もしれませんが、押し付けがましいとことが一切なく聴き手には優しい指揮者だと感じます。

 

感動的なフィナーレ。ライナーのはやめのテンポの下シカゴ響は最高のアンサンブルを聴かせてくれます。

 

ライナーのベートーヴェン、素晴らしいですよ!