ベートーヴェンの「交響曲第9番”合唱”」です。

 

今日は、名フィルで「第九」を聴いて来ました。

 

オーラ・ルードラーさんは速めのテンポをとり、動きの大きい指揮ぶりで祝祭的な気分を嫌でも高揚させる素晴らしい演奏を引き出したと感じました。

 

生演奏はいいですねー。

 

さて、ベートーヴェンの「交響曲第9番」。

 

最終楽章にシラーの「歓喜によせる」による独唱と合唱があり、最大の聴きどころとなっています。

 

「歓喜によせる」は1785年にドイツの封建的な政治形態と専制主義的な君主制に対し、26歳のシラーが人類愛と何百万の人たちの団結による人間解放を高らかにうたった頌歌(ほめたたえる歌)で、当時の青年や知識人たちの間で愛好されました。

 

”何百万の人たち”というと少ないようですが、当時の世界人口規模からみれば非常に多くの数を表していました。まあ、大金持ちを表すのに昔は”百万長者”で十分だったのが今では”億万長者”になっているようなものですね。

 

ベートーヴェンも若い頃から知っていていつか音楽を付けたいと考えてはいたようです。

 

最後のピアノソナタ群(第30番から第32番)で孤独からの心の平安を願うような内省的な傑作を書き上げ、「ミサソレムニス」で独唱や合唱主体の交響的な作品を書き上げ、いよいよその思いを実現するに至ります。

 

ベートーヴェンは本来社交的な性格で熱烈に生涯の伴侶”妻”を求めながらも一度も結婚することもなく、極度の難聴という病気を抱えながらいつも”孤独”にならざるを得なかったということも「第九」の作曲に大きな影響を与えたと思います。

 

この交響曲の大きな特徴として、最終楽章で前の3つの楽章を「こんな音楽ではなく」と否定していることがあります。それでは前の3つの楽章は何を表しているのでしょうか。

 

”孤独”というキーワードで考えると、第1楽章は「”孤独”を運命として受け入れる」、第2楽章は「仕事に没頭して”孤独”を忘れる」、第3楽章は「信仰によって”孤独”からの救いを求める」ではないかと推測しています。そして最終楽章では「愛による”孤独”からの解放」を歌っているのだと、勝手に解釈しています。

 

元々、ベートーヴェンの本心はうかがい知ることは出来ないので、この曲を愛する人それぞれの解釈で感じ取ればいいかと思います。

 

そしてこの曲を書いた後、ベートーヴェンは残された時間で4つの「弦楽四重奏曲」を書くことになります。

 

今まで人が到達することが無かったような頂に上り詰め、その向こう側に降りていったような音楽たちです。

 

ベートーヴェンの「交響曲第9番」。どの演奏を聴きましょうか。

 

フルトヴェングラーが1951年に復活したバイロイト音楽祭の幕開けに演奏したものが有名で、世評も高いものです。

 

私も興味本位で数回聴いてはいますが、最後の狂ったようなアッチェランドにはついていけませんでした。

 

観客席に座っていたら狂喜乱舞したとは思いますが、オケがついて来れない程の無茶振りはレコードとして聴くものではないでしょう。

 

それよりも何より音質的な不満です。音の悪い歴史的名盤と言われるものを聴いて感慨を覚えることは音楽を聴く楽しみの一つですが、この曲のように交響的に巨大な音楽はより良い音で聴きたい。生演奏を聴きたいというのも究極の音質体験をしたいという面があります。

 

曲が立派なだけに指揮者が誰であれ感動を与えてくれるはずですが、私はカラヤンとベルリン・フィルをよく聴きます。

 

1977年の普門館での演奏会を聴きました。当時は目の前にカラヤンがいるというだけで舞い上がってしまうミーハーでしたので(ミーハー根性は今も治っていませんが)、演奏そのものは全く覚えていません。唯一その時の合唱団は日本の合唱団を使っていて、どの箇所だったかカラヤンが合唱団に向かって指揮棒を振りかざした瞬間、想像を超えたフォルテが鳴り響いたということだけは鮮明に覚えています。

 

「第1楽章」、第2ヴァイオリンとチェロがトレモロをピアニッシモで弾き始め、ファーストヴァイオリンが弾く二つの音からなる律動のような音型が、3つの音になり、4つの音になりながら音量を上げていき、その頂点では遂に厳しさのある旋律に成ります。

 

混沌から世界が生まれた瞬間です。創造主(神)が姿を現したとも言えます。

 

「第2楽章」冒頭フォルテッシモで和音が鳴らされた後、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスがフーガ風に旋律を受け渡していきます。ベートーヴェンがフーガを使う時はそこな何か強い意志の力を込めています。この楽章ではティンパニも活躍します。

この楽章の最後の3小節ですが1小節目と2小節目がそれぞれ四分音符が4つ、最後の3小節目は一つで後は休符(なんとフェルマータ付き)になっています。

 

カラヤンもそうですが大抵の指揮者は最後の音を一番強く決然と鳴らします。しかし昨日の名フィルの指揮者は意識的に最後の音を弱く弾かせフェルマータ付きの休符の間指揮棒を下ろしませんでした。ドキッとしました。カラヤンは最後で強く指揮棒を振り下ろしています。

 

思い付きかなと思って家で楽譜を見てみると、ベートーヴェンはこの3小節にある9個の4分音符に、1番目はフォルテッシモ、3番目にフォルテ、5番目にフォルテ、7番目にフォルテと書き、2番目、4番目、8番目、9番目は無印でした。

 

そうなんだ、と新しい発見をした気分です。

 

演奏会ではここで一旦間を空けて独唱者が登場することになります。今回聴いた名フィルではここで合唱団も登場させていました。

 

「第3楽章」、誰が聴いても天国を思わせるような音楽です。最後の方では神の審判を思わせるような部分もあります。

 

独唱者、合唱団とも揃っているので、大抵は間髪なく「第4楽章」に入ります。

映像でティンパニが映りますが、このティンパニ奏者は本当に素晴らしい。最強音で乱打するような場面でも他の楽器を邪魔することなく音楽に溶け込ませてしまいます。

 

この後”前の3つの楽章の音楽の否定、オケによる”喜びの歌”が鳴らされ独唱、合唱が入ってきます。

 

そして感動的なフィナーレを迎えます。

 

いかがでしたか?

 

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このブログが、新たな曲との出会いとなれば幸いです。