「クラシックはこれを聴け」、今回はシェーンベルクの「浄められた夜」です。「浄夜」と書かれもしますが、「浄められた夜」の方が雰囲気が出ている感じがします。

 

前にベルクの遺作「ヴァイオリン協奏曲」を紹介するために色々聴いてみましたが、ちょっと新ウィーン学派の中心メンバーである、シェーンベルク、ベルク、ヴィーヴェルンの音楽を聴いてみたくなりました。

 

カラヤンがベルリン・フィルとクラシック音楽ファンを「あっ」と言わせた3枚組レコードを出したのが1970年代初頭、私もついつい買ってしまったものの、ちょっと聴いただけでついていけずに投げ出したままになっているのも、大きな理由です。

 

その中でシェーンベルクの「浄められた夜」だけはかなり前から聴いていて、その冷たい響きには興味を持っていました。

 

シェーンベルクはラヴェルとかホルストなどと同世代の人です。もっと新しい人かと勝手に思ってました。

 

有名な十二音技法を確立する以前は、後期ロマン派的な音楽を書いています。この「浄夜」も正に後期ロマン派のような音楽で、リヒャルト・シュトラウス風ではありますが、甘さを全く感じさせないストイックな感じは後に十二音技法を予感させるものがあります。

 

最後にも書きましたが、このブログを書くにあたって丸二日何度となく繰り返し聴いてみました。未だにこの曲が名曲なのか分かっていません。しかし一度は聴いておくべき曲なんだろうという漠然とした思いです。

 

「浄められた夜」はリヒャルト・デーメルの詩「浄夜」に基づく曲です。月下の男女の語らいが題材になっていますので、少々長くなりますがデメールの詩を載せておきます。須藤千春さんのブログからの引用です。

 

 二人の人間が葉の落ちた寒々とした林苑を歩んでいる。
 月は歩みをともにし、彼らは月に見入る。
 月は高い樫の木の上にかかり、
 一片の雲さえこの天の光を曇らさずにいる。
 その光のなかに黒い枝が達している。
 女の声が語る。

 私は子供を宿しています。でもあなたの子供ではありません。
 私は罪を背負ってあなたのお側を歩いています。
 私はひどい過ちを犯してしまったのです。
 もはや幸福があるとは思いませんでしたが
 でもどうしても思いを絶てなかったのです、
 生きる張り合い、母親の喜びと義務を。
 それで思い切って身を委ねてしまったのです、
 身震いしながらも、私は見知らぬ人に我が身を任せてしまい、
 そんな自分を祝福さえしたのです。
 それなのに、今になって、人生は復習したのです、
 今になって私はあなたと、ああ、あなたと巡り会ったのです。

 彼女はこわばった足取りで歩く。
 彼女は空を見上げる。
 月はともに歩む。
 彼女の黒い眼差しは光のなかに溢れる。

 男の声が語る。
 きみの授かった子供を
 きみの魂の重荷にしてはならない。
 見たまえ、この天地万物がなんと澄んだ光を放っていることか。
 万物が輝きに包まれている。
 きみは僕とともに冷たい海の上を渡っていく、
 だが特別な温かさがきらきら輝きながら、
 きみから僕へ、僕からきみへと行き交う。
 この温かみが見知らぬ子を浄めるだろう。
 きみはその子を僕のため、僕の子として産んでおくれ。
 きみはこの輝きを僕に運び、
 きみは僕をも子供にしてしまったのだ。

 彼は彼女の厚い腰に手を回し、
 彼らの吐息は微風のなかで口づけをかわす。
 二人の人間が明るく高い夜空のなかを歩いていく。

 

案外陳腐な、ありそうで無さそうな話です。

 

この曲は元々弦楽六重奏で作曲されましたが、後に作曲自身が弦楽合奏版に編曲し直しています。今回この曲を紹介するにあたり、手持ちのブーレーズとニューヨーク・フィルのレコードとカラヤンのものを繰り返し聴いてみました。

 

何度も何度も繰り返し聴きましたが、なんとも全体像が掴めません。ただ、ブーレーズとカラヤンの演奏を交互にかけると時として違う曲のように感じるほど印象が違って聴こえます。このことは順に説明します。

 

二日間起きている時はレコードをかけっぱなし状態で聴いていて、ふと気がついたことがあります。

 

デメールの詩を通して曲を聴こうとするのは大きな間違いなんじゃ無いかと。確かに月夜のような表現や男女の会話、女の告白、男の許しのような表現はありますが、そんなものを聴き取ろうとすると結局訳が分からなくなります。これは”印象派”の音楽なのです。(そんなことどこにも書いてありませんが)

 

月夜で二人の男女の葛藤と安堵、心の動きの印象を音楽にしているのだと考えると、もう詩の内容を追うこともなくかなり聴きやすくなりました。これはあくまで個人的な感想ですが少しは助けになるかと思います。

 

印象派的と書きましたが、同時にオペラティックでもあります。オペラティックというのは誤解を招きそうですが、大きなうねりというか起伏の何とも激しい音楽という意味です。

 

ブーレーズとカラヤン、そうなると圧倒的にカラヤンです。オーケストラにどう弾かせるかという能力と経験はカラヤンにかないません。ここでブーレーズをこき下ろすつもりはありませんが、若い頃は前衛音楽の急先鋒として名を馳せ、「シェーンベルクは死んだ」という文章まで書いて非難していたブーレーズですが、後年バイロイトに招かれてワーグナーを指揮したりとその変節ぶりには驚かされます。オーケストラの指揮の経験を積んだ晩年はいざ知らず、この録音をした頃はまだまだ経験不足だったと思います。

 

対してカラヤンは若い頃から指揮の経験を積み、念願かなって1954年にベルリン・フィルの常任指揮者となり、この曲を録音した1973年。カラヤンはこの時期に、「ベルリン・フィルの常任になって20年、ようやく自分の理想とする演奏ができるオーケストラになった。」というようなことをインタビューで答えています。カラヤンにして20年です。

 

カラヤンはオーケストラに自発性を求めました。つまり室内楽を大きくしたようなオーケストラです。室内楽は指揮者がいないのでお互いが聴き合って演奏します。タクトを振り下ろして半拍遅れて音を出すように求めたとも聞いています。オーケストラは自発的に出を合わせることになります。

 

カラヤンのリハーサル映像を見ると、かなり細かく演奏を直します。それこそフレーズごとに。ただその指摘の仕方はかなり具体的でアタックを付けないとか、そこはフルートを聴いてとか、レガートで等々、もちろんイメージを伝えるために観念的な言葉も使うのでしょうが、ほとんどが具体的な指示が延々と続きます。それでいて結局カラヤンの音楽になってしまうのです。

 

この「浄夜」のカラヤンとベルリン・フィル。最弱音から最強音までの幅の広さの中で無限の段階があるので、音楽にうねるような効果を与えます。ベルリン・フィルの音が痩せることない最弱音、また音が割れることのない最強音は誰もが認めるところですが、この曲でも最大の効果を出しています。

 

これに比べるとブーレーズの方はニューヨーク・フィルにそこまでの能力が無いためか、ブーレーズの好みか判りませんが、弱音は弱音、響音は強音という段階が見え隠れしてします。強音の部分の迫力はありますが、それに比べ弱音の部分の表現が弱いのかと思います。

 

今、カラヤンのレコードは終わりに近づいています。消え入るような終わりですが余韻が見事です。レコードでもそれを感じさせます。

 

この曲が名曲なのか、未だに判然としませんが、カラヤンの演奏する「浄夜」なら繰り返し聴けそうです。出来たらイヤホンかオーディオ・スピーカーで聴いてみて下さい。

 

これでようやく「浄められた夜」から次の曲に移れそうです。続けてシェーンベルにしましょうか。カラヤンのレコードにはシェーンベルクだけで後2曲収録されていますので。

 

最後までお付き合い、ありがとうございました。