『宇宙よりも遠い場所』(通称、よりもい)

こちらは普通の女子高生4人が、様々なことを乗り越えて南極に行くというアニメ

2018年に放映されその後2021年、2024年に再放送されたのですが

今もなお、ファンに愛され続けているアニメなのです

最近、あるきっかけで『よりもい』と出会ったのですが

私も女子高生の時に色々な事があったからか

気持ちが入りすぎて涙なしでは見られなくて…笑

ついには群馬県の館林へ行き

聖地巡りまでしてきました

ここであの4人が生活してて、南極を目指し

ついには南極上陸を果たしたのだ!という思いが巡り

ワクワクの止まらない1日を過ごしました

架空の女子高生とここまで仕合わせられる人間の想像力に、感動すら覚え…

もはや架空ではなく、ファンにとってその世界は本当に目の前にあるものなのだと理解しました

現実だろうが、作り出した世界だろうが

それにはそれぞれのヒストリーがあって

それぞれがまた色々な形で仕合わせて

新たなヒストリーを作り出しているのですね

〈ライター:小川陽子〉

冬至と聞けば、夜が最も長くなる日、くらいに思っていました。
寒さはこれからでも、季節はここから日がだんだん長くなり、春になっていく。

そこで寒さに負けないようにゆず湯で暖まったりカボチャなどを食してビタミンなどを補う。


Wikipediaによると、
冬至と調べると「至点」という言葉が出てきます。


「至点(してん、solstice)とは1年に2回、

天球上において太陽の赤道面からの距離が最大となる瞬間、

またはその時の太陽の位置を指す語である。

太陽が至点に達する日(夏至・冬至)は分点に達する日(春分・秋分)とともに季節に関連している。

いくつかの言語圏ではこれらの日がそれぞれの季節の始まりを表す日として用いられている。

(略) 日本ではこの二つの点を「夏至点」「冬至点」と呼ばれる。」


そうか~
当たり前だけど、夏至、冬至という言葉、春分、秋分という言葉は

太陽と地球の関係から「至点」「分点」から「点」がなくなり季節の変わり目を祝う言葉として

私たちの良く知る冬至のような言葉として生活の中に根付いていったのだと。

特に冬至にはここから日が長くなることから

「一陽来復」ー陰極まって陽が戻るーという、

再生や好転を表す時としても考えられているようです。


それこそ古代の人々にとって太陽の動きは人々の生活の中心にあって

それが信仰にもつながっていったことは想像に難くないこと。


2025年の冬至点は0:03分とのことで、私は珍しくコーチたちと
この瞬間を仕合せることができました。

今日も遅くなりました。
寒さはこれから。皆様どうぞ暖かくしてお過ごしください。

<ライター:伊藤 惠子>

 


 



先日母の一周忌法要を終えました。
あっという間の一年だったなぁ~と。

私の育った家族は核家族でした。
遠方に住んでいた祖父母の葬儀には孫として
立ち会うことはありませんでした。

両親の兄弟の葬儀は私も大人になっていたため参列しましたが、
それまでは家族がどんな宗派にお世話になっているのかも知らないまま
父の葬儀の時に初めて知りました。
それだけ宗教とは縁の薄い生活だったといえます。

今回母の一周忌法要でお坊さんにおいでいただき母を偲ぶ時間を持つことができて
改めてよかったなぁ~と思っています。

宗教的にではなく、近親者以外の方がともに母の死に想いを寄せて祈り、
そして葬儀の時にお話ししたことを一緒にまたお話できたことで、
家族みんながまるでそこに母が居るかのように感じることができたように思いました。


この一年、亡くなる前の10年ほどを想うと、
いろいろな感情がじわじわと湧き出ていましたが、
それもすべて大切なものとして私の中にうまく収まってくれたようです。
すべてが時間の中で仕合せてくれたようです。


一日遅れの投稿になりました。
今日も一言通信をお読みくださりありがとうございます。

<ライター:伊藤 惠子>

 

「で、結局、何がどうなったらええねん?」

 

GMOインターネットグループ副社長CCO 西野裕之さんの言葉

「悩まない人の考え方」木下勝寿 著(ダイヤモンド社)より

 

 

この本の中では ”人を悩みから解放してくれる究極の問い” と述べられていました。

 

私はこの問いに触れる度に、会議のワンシーンが鮮明にイメージされます。

 

一所懸命、汗をかきかき、集めてきた資料を基にCCOに説明する社員。

 

ひと通り説明が終わった後に、役員から発せられるこの一言。

 

ハッと我に返らせられる社員。

 

みたいなシーンです。

 

前職の時に、よく経験したことなので、トラウマなんでしょうね(笑)

脳が揺さぶられます(笑)

 

人間は感情の動物と言われます。物事に愛着を持ったりします。

 

自分のしてる仕事に深く関われば関わるほど愛着が湧いてしまうものです。

 

”この問いによって、感情モード→思考モード(問題を具体的課題に昇華させる)に変わり、「そのためには何をすべきか?」に変わる。”そうです。

 

確かに。

 

”壁にぶつかったときに役立つ問い”

という説明でした。

 

 

「で、結局、何が言いたいねん?」

 

今日の投稿はオチなし(笑)

 

 ==========

問いにより人の脳(心)は動きます。

~心が変われば行動が変わる。

 行動が変われば習慣が変わる。

 習慣が変われば人格が変わる。

 人格が変われば運命が変わる。~

 by ウィリアム・ジェームズ

 (19世紀末の米国心理学者)

 

人の道は選択の連続。

 

<第3木曜日担当ライター:寅さん>

『私たちが求めているのは、究極的には「人のぬくもり」かもしれない。』

(『ふりむけば良寛(小島寅雄・著)1998』)

冬が近づいて寒くなってくると、この言葉が身に沁みて感じられます。

第一・第三水曜日担当の筆者の投稿は、少し早く感じますが、今日が今年の最終回です。振り返ると自分の人生でいろいろ節目の年だったと思います。

中でも今年急に身近になったAIのおかげで、確かに生活は一段と便利になりましたが、果たしてAIは本当に人類をしあわせに導く発明なのだろうか?滅亡を早めるだけの悪魔の発明では?と、もやもやした一年でもありました。

そんな時、新しく知り合った友達から標記の本を貸していただき拝読しました。故・小島寅雄さんは鎌倉生まれで熱烈な良寛ファン。鎌倉市長等の要職を歴任され、退職後は鎌倉のお寺で在家得度された方です。

自分も良寛(江戸時代の僧侶)様は昔から好きで、今も「現代の良寛様」と呼べる海老名の小林義功老師のところに通っています。

小島さんは結局どうして良寛ラブなのか、というと彼の残した書や歌や生活態度から小島さんが求めてきた「人のぬくもり」を体現した達人ということが確信できるからのようです。そして良寛様が小島さんの求める人物像というだけでなく、冒頭の言葉が「私たちが」と書かれているところから「人は皆ぬくもりを求めているのでは?」という気持ちが表れていますね。

この本はAIの無い時代に書かれたものですが、何のために人は「仕合わせる(動詞)」のかというと、「しあわせ(名詞)」を求めて、ということになりますよね。私たちが求めている「しあわせ」の正体とは究極には「人のぬくもり」ではないか、というのは一つの答えだと自分も思うのです。もっと言えば「心のぬくもり」・「生命のぬくもり」であり、それは絶対にAIロボットでは体現できないものだと思います。

AIは優秀なアシスタントとして使い、人として大切なのは「ぬくもり」だということを忘れずにこれからも仕合わせて生きたいと思う今日この頃です。

皆さんが追い求める「しあわせ」とは何ですか?

(イラストはAIに描いていただきましたww)

今日も仕合わせる一言をお読みいただき、ありがとうございます。

<ライター:沢☆一休>(鎌倉愛好家)

先月に続き郷里の日本海から・・

 

 

波はよせてはひいていく。

先週の地震による津波も心配でした。

 

実際に海のそばにたつと、美しいというより、畏れが先立ちます。

小さな波でも、その動きとざぶんという音に、こわいという気持ちが湧きおこります。

 

海も山も死と隣り合わせ。

自然と仕合わせるということは、畏敬の念と共に、生と死を強く意識させられます。

 

限りある命だからこそ、毎日を淡々とベストを尽くして生きようと、立山連峰から昇る日の出と日本海の波をみながら思いました。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

<ライター:うのゆ♨

鎌倉交響楽団メンバーによる室内楽演奏会を視聴。

鎌響は定期演奏会(次回は2026年4月5日)ファミリーコンサート(次回は2026年7月4日)とは別に、コンサートマスターの五味俊哉さんを中心に少人数のメンバーだけで行われる室内楽演奏会が年に何度か開催されます。

今回は12月6日 カトリック雪ノ下教会(鎌倉市小町)でのチャリティーコンサートでした。

雪の下教会での合唱の演奏は聴いた経験はありますが、室内楽は聴いたことがありません。曲目は『バッハ/ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会』でしたが、私はバッハに魅せられたわけではなく、天井の高いカトリック教会でのヴァイオリンの響きに興味がありました。

何時ものように五味さんの解説もあって、満員の会場は ホールでの鑑賞と違って室内楽の楽しさを近距離で楽しんでいらっしゃるように感じました。

私はオーボエとヴァイオリンの違った音色の掛け合いが楽しく聴けて ちょっと贅沢な時間をいただきました。

チャリティーコンサートだったのでいつもより少し多めの寄付をしたのも 自己満足の喜び時間になったのかもしれません。贅沢を、ありがとう です。

 


 

(ライター:山口一郎)

おじさんどうしの仕合わせ方の定番は飲み会とゴルフですね。筆者は、今は(昔はともかく)どちらもやりません。

そこで同じマンションの会合に参加するだけの付き合いの「おじさん」たちとの懇親を深められたらと、思い切って「鎌倉散策」を提案してみました。

すると3人のおじさんが参加を表明してくれて、筆者が案内する形で4人で紅葉の鎌倉散策を実行することになりました。

事前にコースを設定する際、3人とも山登り等の趣味があり健脚であることがわかったので、おじさん4人のガチなハイキングを決行することにしました。

行きつけの古民家レストランでランチ、寺社や史跡、メインは山中の「獅子舞」という紅葉名所を巡り、最後は鎌倉駅近くのカフェで歓談、LINEの交換などもし、「とても楽しかった」との感想を頂きました。

今回のオジハイ⁉で少なくともこの4人の距離はぐっと近くなったと感じます。今後のマンションの管理活動にも良い影響が出ることと思えて、良かったと思います。

時には自分ができる「仕合わせ」を思い切って提案してみるのもいいかもしれませんね。

今日も仕合わせる一言をお読みいただき、ありがとうございます。

<ライター:沢☆一休>(鎌倉愛好家)

秩父の秋を楽しんできました。

真っ赤な紅葉、黄色いく色づく銀杏。

そしてゆっくり流れる長瀞の渓谷。

長瀞という地名には「長い渓谷」を意味する古い言葉が込められているとのこと。

その名の通り、この地は古くから人々に親しまれ、ときに畏れられてきたようです。

江戸時代には旅人が秩父往還を行き交い、川沿いの村々では農と祈りが生活を支えていたといいます。

さらに遡れば、この岩畳をかたちづくる結晶片岩は、約2億年前の地層が地殻変動で地表に現れたものだと。

目の前の景色が一瞬にして悠久へとつながる旅となりました。

昔の人々も今と変わらず、この美しい自然を仕合わせに楽しんでいたことでしょう。

〈ライター:近藤有里恵〉

『泥仕合』(どろじあい)

「仕合」という言葉を使った慣用句はあまり見かけないですね。

先日たまたまNHKのTV番組「チコちゃんに叱られる!」で取り上げているのを観ていて、「あ、この言葉は現代でも使うかも⁉」と思ったのでシェアさせていただきます。

「泥を投げ合うような端から見て醜い争い」、という意味ですが元々は歌舞伎の見せ場の一つとのことです。

良い意味ではないですが、武器で戦っているのではなく、案外、本人たちは夢中で、実は少し楽しんでいるのかも知れない、と思ったりもしました。雪合戦みたいに・・・

今日は投稿当番の日ではないのですがリリーフとしてちょこっと仕合わせてみました。

(イラストは生成AIが作画してくれました)

今日も仕合わせる一言をお読みいただき、ありがとうございます。

<ライター:沢☆一休>(鎌倉愛好家)