1985年3月

孝蔵さんの入院した病院は都心から離れた郊外の分院でしたので、学校の帰りでも、休みの日の自宅からでも1時間以上かかり、学校の定期券区間外でしたので、病院へ通うのに孝蔵さんは定期券を買ってくれていました。
叔父叔母は引っ越しと、孝蔵さんに頼まれた諸々の手続きのため広島に帰っておりましたので、タオルやパジャマなど洗濯物も4〜5日に一度持ち帰り、また持って行きました。



お正月での話や、1〜2月一緒に出掛けた時の話から、私は当初、孝蔵さんは1984年中に離婚は成立しているものと思っていました。今回、お母様の辰子様のブログに戸籍謄本が掲載されており1985年3月中旬に離婚届が出されたと初めて知りました。

1985年1〜2月に一緒に出掛けていた時の孝蔵さんの話では、持って行かれた通帳のお金は子供の養育費として渡して、カフェも渡した。自分は又頑張って働けばいい、と言っていました。

その時期はランチ代も含めて月に3万円のお小遣いを親に貰っていた私には、○千万円という桁違いの額が恐ろしくも感じつつ、心の広い人だと感じていたこと、お子様が本当に可愛かったのだと感じていました。
深大寺の家でも居間の、叔父叔母孝蔵さんが座る位置からよく見える場所に、お子様の大きく伸ばされた写真もずっと飾られていました。


どうして1985年1〜2月にそのような話を聞いたことを覚えているかというと、再入院する時に、今回の入院で完全に肝炎を治して、また一から頑張って働けばいいから、と言っていたからです。
叔父叔母は、一旦お金を返して貰って、分割で養育費を渡した方がいいのでは?とも言っていたそうですが、孝蔵さんが念書の内容も決めています。念書の存在を知らない訳がありません。

一度、2月頃に揉めているのかな、と思ったこともありましたが、離婚に際しての内容も決めていたので、従姉妹の私はいつ離婚届を出したかなど特別気には留めておりませんでした。


1ヵ月半ほどの入院だったと思います。
孝蔵さんが、普通の人なら3ヵ月くらい入院するところだけど、俺は水泳をやっていて体力があったから早く退院出来たんだよ、と言っていたのを覚えています。

それでも、退院して1ヶ月位は自宅療養でしたので、深大寺の家で寅さんの映画を見たり、深大寺植物公園に自転車で行ったり、山中湖も行きました。
山中湖は遠出と言えば遠出なのですが、調布インターから中央高速で1時間半ほどで着きますし、運転は苦では無いようでしたので、度々行きました。


初めて遠出したのは、1985年のGWの日光でした。
孝蔵さんは行ってみたいところに行き、沢山のことを吸収したいと言っていました。色々見て、経験して、沢山のことを吸収して、頑張っていい曲を作る、それが俺の仕事だからね。と言っていました。


Y子さんのブログのコメント欄では、若い子とイチャイチャとか書かれておりますが、孝蔵さんは辛い事実を乗り越えて、前向きに前向きに進んでいました。


そんなことを書かれて、天国で孝蔵さんも苦笑していることでしょう。