色々予定もあり、ブログにかかりっきりにはなれず、ご心配を頂いている方々には申し訳なく思っております。
Y子さんのブログやコメント欄に、村下孝蔵とその両親、姉について、事実でないことが多々書かれてありましたので、今一度、確認のために順を追って綴りたいと思います。
まず、私がブログを書くきっかけは、
偶然にもY子さんのブログを見つけてしまい事実ではない記述を、あまりにもたくさん見てしまったからです。孝蔵さんから聞いた話とかけ離れていました。
Y子さんにコメントをするも、Y子さんからコメントの返事は頂けず、なぜか読者らしき人達から酷いコメント返し。
Y子さんにメールを送るもメールでのお返事は頂けず、Y子さんのブログ本文にて、もうメールを送らないでくださいと書かれました。
コメント欄では、本当に従姉妹か?とも書かれたため、叔父叔母や孝蔵さんとの思い出話を書き、叔父叔母の本当の姿を少しでも分かって頂けたらと思い、ブログを立ち上げました。
実際には1年ほど悩みましたが。。。
ブログを書き始めると、
何年ぶりかに会ったひと回り以上も歳下の従姉妹に、離婚時のことなどを話すのはおかしい、とY子さんのブログ(コメント欄だったかと思います)で書かれましたので、沢山一緒に出掛けたことを書き、その中で孝蔵さんは自然に話をしていた事を分かって頂けたら、と思い思い出話も書かせていただきました。
深大寺の家のことも書かせていただきました。
孝蔵さんは、親族である従姉妹、人見知りで大人しい従姉妹に安心して何でも話したのでしょう。
現に今回のことが無ければ、(親友達は孝蔵さんと会っていますので知っていますが)表に話が出ることはありませんでした。
Y子さんの村下家に対しての作り話がブログから削除され、叔父叔母、孝蔵さんの汚名が完全に挽回が出来れば、「風鈴が鳴るように」ブログは全削除しても構いません。
このブログは、村下家に対しての誹謗中傷を改めてもらうこと以外の目的はございません。
1985年お正月
家族で深大寺の村下家へ遊びに行きます。
孝蔵さんが、「妻が引っ越しして2週間で通帳と印鑑を持ち、出て行った」と話します。
1985年1月
孝蔵さんから「東京を案内してほしい」と私の家に電話。三鷹駅で待ち合わせをしますが、都内ではなく中央高速に乗り山中湖へ行きます。
湖畔で一度降りて富士山を眺めますが、体調も万全ではないため、湖畔のロッジ風のレストランでランチをして調布に戻ります。
1985年2月から3月にかけて
孝蔵さんは2度目の長期入院。
孝蔵さんからは完全に治すための入院と聞いています。
1985年1月から2月
お茶の水の楽器店や、銀座山野楽器などに行きます。遠出や長時間の外出は無理でしたので、大抵20分から30分で帰っています。
始めの頃は、私の自宅への送り迎えは無く、三鷹駅まで迎えに来てくれて、帰りは三鷹駅まで送ってくれました。
1985年2月
叔父叔母は、引っ越しをするために広島に戻ります。
叔父叔母が留守であったため、私はその後入院した孝蔵さんの病院へ通うことになります。
孝蔵さんはこの時、カフェの手続きなどもあり引っ越しにも少し時間がかかるだろう、と話していました。
叔父叔母はこの時期、広島から鹿児島に引っ越しする予定であったのを東京への引っ越しに急遽変更したと聞いています。
「カフェ」の話が出ましたので。
Y子さんがブログで、孝蔵さんはカフェという言葉を使わなかった、と書かれていましたが、私の前では普通に使っていました。
なぜなら、私がパン屋さんの2階のカフェでアルバイトをしていましたので、普通に「明日はカフェのバイトだろ?」とか「カフェの前で待ってるよ」とか普通に使っていました。
曲の歌詞にはこだわっていましたが、日常、英語の文字をそれほど毛嫌いしている記憶はありません。
つづく