兵庫奈良3講の貯徳の叶子さんからステキなシェアがありました。

とても心に響くお話ですのでこちらでも分かち合いますね。ありがとうございます☆




誠実な生き方
小林 正観

<目の前の事を丁寧にきちんとやっていく>
目の前のことを、いかに丁寧にきちんとやっていくか、
が大事であって、ひとつひとつの現象、そのすべてが尊いことなのです。
ありとあらゆる仕事、すべてにおいて言えますが、
誠実な生き方をただ淡々と積み上げていけばいいのです。

ただ、どうしたら喜んでもらえるか、だけを考えて、仕事に取り組んでいくと、
それが<誠実な生き方>になります。

7世紀、唐の時代、仏教典を天竺まで取りに行った玄奘三蔵は、往復17年かけ、
長安の都へ帰ってきました。
片道1万5千キロの距離を往復17年、行きに15年半、帰りに1年半かかったそうです。
帰りは1年半で帰ってきたのに、なぜ、行きは15年半もかかったのか。
それは、各国の王様の滞在要請を、玄奘がすべて受け入れたからです。
「ここで3ヶ月いてください」「半年いてください」と頼まれた玄奘は、
「はい。わかりました」と言って、その王国の家臣団、武士達に仏法を説いていたのです。

玄奘の立場からすれば、天竺にありがたいお経を取りに行く、
という大きな目的があって、旅を始めたわけでしょう。
いくら王達に頼まれても
「私には使命があるのだから、あなた方の要求には応えられません」と断ることもできそうですよね?
でも玄奘は断らなかった。

<今目の前にいる人が、1番大事だ>という事がわかっていたからです。

「仏法を説いてくれ」と言われて、ここで説かなければ、”私”が存在する意味
がないのではないか。
仏教典を取りに行くというのは、あくまで自分が決めたこと。
旅の途中で、”私”に対して「仏教を説いてくれ」と希望している人が目の前にいる。
その要望に応えないで、何のために私は仏教典を取りにいくというのだろうか。

当時は疫病が流行っていましたから、3ヶ月、半年と滞在している内に、病気で
死んでしまうかもしれない。
しかし、それでもいいと思いながら、その依頼に対しては、本当に心を込めて応えたのだと思います。
玄奘のとった行動を考えたときに、突然ぽこっと、私の頭の中からある言葉が出てきました。

「玄奘が一人目ではない」
玄奘は、成功した唯一の人であって、
それ以前にどうも何人かの人が天竺に仏教典を取りに行ったらしい。
考えてみればそうですね。天竺にありがたいお経を取りに行こうとした僧侶は、
何十人もいただろうし、実行に移したと思うのです。
しかし、その人達は、誰一人、長安の都には帰ってこなかった。
どうして誰一人帰ってこなかったのでか。
それは、先を急いだからです。

王たちの依頼を断らずに旅先で、仏法を説いていたために、行きは15年半もかかって天竺に着いた玄奘が、
帰りは1年半で帰ってこれたのはなぜか。
帰りもこの王達は玄奘を放ってはおかなかったからです。

ものすごい協力体制をしいて、国境毎に兵隊を出して、玄奘を擁護しながら次の
国境まで運んでいったのです。

国境で次の国の軍隊に申し送って、その王達も馬と兵隊を提供して、次の国境ま
で擁護して…
ということをやっていたのです。

この1万5千キロのすべての王達が、そのように玄奘を守って無事帰国させたの
は、行きの15年半があったからです。
玄奘だけがチャレンジャーではなかった。

玄奘が仏教典を持ち帰り、歴史に名前を残しているのは、
<行く道のすべての人を味方にすることができた>唯一の人だったからです。

玄奘は、仏教に詳しいだけではなかった。
今、目の前にいる人を大切にする人だった。

玄奘と同じようにチャレンジした僧侶たちは、自分達の崇高な理念のもとに、目
の前の人を大切にするという思想を忘れてしまっていたのかもしれません。

その結果として、帰りは自分だけの力で砂漠を横断しなければならなかったのだ
と思います。

玄奘は、お釈迦様の教えが本当に非常に深い部分で分かっていた。
すべての人を大切にして生きていくということは、自分の人生を助けてもらうということでもあるのです。

皆さんも自分の人生になぞらえて置き換えてみたらどうでしょう。
私達は、自分の力だけで歩いているのではないですよね。
出会う人、巡り会う人、すべての人の力を頂いて、人生を歩いていきます。

どの様な人生目標を打ち立てても良い。
それに向かって行く途中、全然違う方向に引っ張られているように見えたとして
も、目の前の人やことを、大事にしていくという積み重ねの結果として、必ずある所まで、連れていかれます。

流れに逆らわず、起きてくることをひとつひとつ、誠実に受け止めていくことが、
自分にも周りにも、とても良い選択であったとあとで知るのです。

人に会うたびに、今できることに全力を傾けて、その人を最も大事な人と思って
接していけば、たとえ、今日その人が死んでしまっても受け入れられるものです。

この瞬間に目の前にいる人に自分の思いを注ぐということをやり始めると、過去
為したことについて、後悔するという気持ちはなくなっていくでしょう。

人を大事にするという事は、遠くにいて大事にできるわけではなくて、目の前に
いるときにしかできない。
それを最終的にどんな人にでも向けていくことができるか…
最終的な愛は、すべての人、すべてのものが同じ重さになる、そこまでいくと思います。