これまでXで、兵庫県高砂市の生石(おうしこ)神社に鎮座する巨石=生石(おうしこ)ドローン及びその分霊である酒田市の生石(おいし)神社に所在する酒田ドローンについて述べてきた。じつは生石関連の神社は和歌山県有田川にもある。これについては話が大変込み入っているので、Xで短文を連投するのでは埒が明かない。久しぶりにブログで真相を解明していこうと思う。

 

有田川町の生石神社は、なんと2つある。

一つは、五名生石(ごみょうしょうせき)神社。天慶元年(938年)、応仁山に一夜にして巨石が誕生し、これを祀ったのを創始とする。その後、正暦元年(990年)に現在地に遷座したという。

いま一つは生石(しょうせき)神社。永祚元年(989年)にやはり一夜にして巨石が誕生、これを祀ったという。「一説に天慶元年(938年)ともいうが、当社の記録にはない」とわざわざ社伝で天慶元年説を否定している。「もとは阿波国の杉尾神である播州の生石子(おうしこ)明神が応神山に鎮座した」という。

この2つの神社は非常に近接した位置にあり、生石(おいし)高原という巨石の散在する薄(すすき)野に鎮座している。

 

一見してこの2社の社伝は、似ているようで若干異なるものであることが分かるだろう。高砂生石(おうしこ)、酒田生石(おいし)の巨石のように、単純に国家統治あるいは賊軍の征討のために巨石が用いられたとする一本調子の考えで理解できるものではない。いったい、有田川の2社は何の目的があってこの地に鎮座することになったのか。

 

 

ここで気になるのが天慶元年(938年)という年だ。平将門、藤原純友による承平・天慶の乱に見える年号である。この翌年の天慶2年(939年)に藤原純友が播磨介(はりまのすけ)を襲撃、捕縛し、天慶4年(941年)5月には大宰府を陥落させるも、6月に朝廷の追捕使に討たれたとされる。

 

生石関連の神社は、皆反乱の鎮撫に関係がある。有田川の2社のうち少なくとも五名生石(ごみょうしょうせき)神社は間違いなく、藤原純友による大乱が起こる前年に鎮座したようだ。これは、藤原純友を鎮圧するために建てられた神社=有田川ドローンである可能性が濃厚である。

 

「瀬戸内海を中心に起こった藤原純友の乱なのだから、鎮圧には高砂市の生石(おうしこ)ドローンがあれば十分ダロ!!」…そういう声が聞こえてきそうだ。が、反乱は2年以上にわたるものであり、藤原純友の勢力はそれだけ大きかったわけだから、乱の兆候を察知した朝廷が高砂に加えてドローンの拠点を増設したと考えるのは自然である。あるいは、高砂の生石(おうしこ)ドローンにうまく運転できない何らかの事情があったのかもしれない。ここで私は、901年の菅原道真公の大宰府左遷が気に掛かってくるのだ。乱を遡ること30数年前に道真公は無念の死を遂げ、怨霊となっている。あの阿蘇火口に比較的近い現・福岡県の地で…。道真公の怨霊のもつ霊力が阿蘇で発電された電力の送電に干渉して、出雲モノリスの受電が難しくなっていたのではないか?電力事情が悪くなる中で折悪しく起こったのが純友の乱だったのだ。朝廷が道真公の怨霊の影響から離れた和歌山にドローンの拠点を置いた可能性は高いと言えるだろう。

 

では、なぜ和歌山なのか?先ほども述べたように、生石(おいし)高原は、ドローンに使用できる巨石巨岩が多く散在する草原である。戦争に用いるドローンは多ければ多いほど良い。高砂の生石(おうしこ)ドローンが相手にしていた敵はヤマト国の原住民。酒田ドローンの敵は蝦夷たち。赤子の手をひねるような戦いだっただろうが、時代はすでに900年代、藤原純友は強い。平安京からも視察に行きやすい距離にある有田川に朝廷がドローンの拠点を置く決定をしたのは合理的だろう。

 

「それにしても、いくら怨霊を避けたとて、有田川には巨石の推進力になる電力がないダロ!」…私もこの疑問の前にしばらく懊悩していた。が、よく考えてみればこの地は、高野山のすぐそばなのである。高野山には819年に金剛峯寺が創建されている。ここでは空海の信奉者、僧侶たちが日夜、真言(マントラ)を唱えているのだ。

巨石ドローン…正の質量を負に反転させるための負の次元の呼び出し、そして巨石の推進力には電力がもっとも安定性が高いのはもちろんだが、真言(マントラ)のもつ呪力も有用だろう。「マントラで石が動くカ―!」そういう反論もあろうが、生石(おいし)高原にはなんと、「弘法大師の持ち上げ石」なるものもある。弘法大師空海がこの高原で護摩修行をしていた頃、旅人の通行の妨害になる巨石を怪力で持ち上げたとのことだが、巨石が生身の人間の筋力で持ち上がるワケはない。空海自身が身に着けていた真言の呪力が、石の持ち上げの助けになったのは間違いがない。持ち上げに呪力が有用なら、ドローン飛行にも有用だろう。生石(おいし)高原にはほかにも「火上げ石」など、不可解な巨石が多いようだ。高野山開創以来、もともとこの高原の巨石群は真言の力が干渉して暴走気味になっていた可能性もある。神社を設置して力を調節し、乱の鎮圧にも効果があるのなら、朝廷にとっては願ったり叶ったりだったのだろう。

 

…かくて藤原純友の乱は、有田川から発進する多数のドローンによって無事鎮圧された。現在、生石(おいし)高原にちらばる巨石巨岩は天慶の乱の戦いから戻ったドローンの残骸なのだ。そして、とくに霊力の高かった2石がいまも祀られているのだ。

 

これで有田川ドローン=五名生石(ごみょうしょうせき)神社&生石(しょうせき)神社の来歴は解けた…と言いたいが、注意深く論考を精読いたいだいている方におかれては、「五名生石(ごみょうしょうせき)神社はそうだとしても、生石(しょうせき)神社は989年創建だろ!」という突っ込みが可能だろう。そうなのだ、生石(しょうせき)神社の方では「938年創建は当社の記録ではない」とご丁寧に断わっているのだ。

これを真に受けると、生石(しょうせき)神社についてはナゾが解けないということになる。…しかし、本当に生石(しょうせき)神社は938年創建ではないのだろうか?なぜ誰も聞かないのにわざわざ938年説を否定するのだろうか?

 

じつは、この2つの神社のうち、本家高砂の生石(おうしこ)神社が分霊として認めているのは、五名生石(ごみょうしょうせき)神社の方だけなのである。しかも、五名生石(ごみょうしょうせき)神社を「創建年不詳」の神社として分霊認定している。「播州の生石子(おうしこ)明神が鎮座した」と自ら断言している生石(しょうせき)神社にはなぜか触れていないのだ。

 

ここから分かるのは、本家高砂の生石(おうしこ)神社においては、938年という年は何か“隠したい”年だという強い意図である。そして、「阿波→播州→応神山」などと情報の伝播経路あるいはドローンの飛行経路をベラベラ喋っている生石(しょうせき)神社の社伝はけしからん、ということではないか。

 

すでに時代は900年代なのだ…東北戦線ですら、神亀元年(724年)の多賀城創建以降は生身の人間の肉弾戦で対処しているのだ。この頃すでに惰弱になりつつあった公家たちは、藤原純友への恐怖心から禁断のドローンに手を出したのだろう。が、700年代においてさえドローン使用に難色を示したユダヤ界隈が、900年代のドローン使用を持ち出した平安京の朝廷にどういう顔をしたのか。朝廷にとって、ユダヤの手前も天慶元年(938年)という年は葬り去りたいくらいの恥辱の年であったに違いない。

 

そして、生石(しょうせき)神社が本家高砂から存在すら無視されるようになったのは、何より「阿波」に触れた不用意さにあるに違いない、と思う。

阿波の杉尾神…徳島には杉尾神社というのが多いという。もともと杉が多く自生していたのだろうが、杉=モノリスの役割もあったのではないか?日本は石の国ではなく、森と水の国である。モノリスには石が最適なのはエジプトの例から明らかだが、石が不足なら木を使うよりほかはない。そして、「尾」は蛇を連想させ、川の暗喩であることが多いという。阿波であれば、吉野川だろう。杉を経由して吉野川沿いに送電する神…阿蘇から石鎚山、そして…吉野川沿いにはユダヤの神殿である磐境神明(いわさかしんめい)神社がある。

 

とくに今回の主題とはしていなかったもう一つの真実が浮かび上がってきた。

播州の生石子(おうしこ)明神=高砂市の生石(おうしこ)神社の元であるとされる「阿波国杉尾神」とは、端的に言ってユダヤのことなのだ。ヤマト国拡大に貢献した生石(おうしこ)ドローン、蝦夷征討をした酒田ドローンの元でもある生石(おうしこ)ドローンは、ユダヤの意志による産物なのである。そして、938年に平安京の朝廷に手を貸したのもやはりユダヤのドローンなのだ。

 

生石(しょうせき)神社に話を戻そう。社伝がどのような順序で整っていき今に至ったのか、その詳細はすでに分かりようがない。が、おそらく、「阿波」に言及した神託を生石(しょうせき)神社が世に漏らした時点で、朝廷&本家高砂は激怒したに相違ない。その段になって慌てて「938年」だけは取り下げたが、時すでに遅く、生石(しょうせき)神社は本家から捨てられたのである。

本家としては938年を高らかに掲げた五名生石(ごみょうしょうせき)神社も切り離したかったところだろうが、なにぶん藤原純友の乱鎮圧は当時における大戦争だったゆえ、有田川2社を両方無視するわけにも行かなかったのだろう。「阿波」という究極の秘密に触れた生石(しょうせき)神社に比べれば、五名生石(ごみょうしょうせき)神社の938年暴露などまだかわいいものだ。「創建年不詳」とすっとぼけて五名生石(ごみょうしょうせき)神社のみを分霊認定したのである。

 

ともに天慶元年(938年)に緊急に鎮座し、藤原純友の乱鎮圧に奮戦した有田川2社ドローン。

時は若干流れて、承平天慶の乱の記憶が薄まり、藤原氏の摂関政治が始まって間もない頃、有田川2社は心機一転、両社とも遷座した。生石(しょうせき)神社は表向き「創建」とされる永祚元年(989年)に、五名生石(ごみょうしょうせき)神社は社伝の通り正暦元年(990年)に…。

 

世界における他の古代の超技術でも、人間の文明が進めば進むほど、隠蔽するように奥の院から要請が働く。おそらくこの遷座の際に戦いの痕跡はすべて消され、あたかも単に自然石が散らばる空間かのように生石(おいし)高原は綺麗に掃除されたのだろう。高野山の真言(マントラ)は今後も永劫に続くゆえ、二度と巨石が反応・暴走しないよう、2社の力で万全の結界を設けたのではないか。

(完)