青木のウサギ猟の特訓が始まって、半年ほどが過ぎた…

カサカサッ。微かな音を聞きつけて、青木が機敏に、静かに、身を屈めて小走りになり、槍を投げる。ブスッ。

「イケたようだゾ!」槍を投げた地点に青木が走り寄ると、見事命中し絶命したウサギが横たわっていた。

「ホッホッホッ」老翁が手を叩き、青木を讃えた。「結構、結構!」「かなり見違えたネ。良くここまで来たヨ。褒めてあげる!」オミクが微笑んだ。

「ありがとうございます、翁…翁の強力なご指導のおかげで、なんとかここまで上達することができました。」青木は深々と頭を下げた。「ホホッ。私なぞ大したことは教えていない…あなたが非常な熱心さで努力を続けた結果ですヨ。この技は自転車に乗るようなモノで、一度習得したら忘れることはない。あなたの財産となるでしょう…」老翁は目を細めた。

「それにしても、ですナ…」老翁は一度言葉を切った。「ひょんなことから異郷の地に来ることになって、さぞかし日本が恋しくなっているのではないですカナ?」老翁は窺うように青木とオミクを見つめた。「そ、それは…まぁ、まったく日本のことを考えないと言ったらウソになりますネ…」青木の声は少し沈んだ。「私も…お父さんお母さん、心配しているのカナ…」オミクも涙ぐんだ。「すいませんナ。湿っぽい雰囲気にしてしまいました。」老翁は二人から目をそらした。「仮にお二人が日本に戻りたいとしてですヨ、どうも状況は良くないのです。」老翁は双眼鏡を青木に差し出した。「あなた方がもといたセブをご覧になってください…」「双眼鏡?よくこんなものをお持ちでしたネ」青木は少し驚いた。「若干古めかしいですが…」「ははは、それも例によって日本兵が残していったモノなのです。まだ使えますから、どうぞ」青木はセブ島の方角を眺めた。むむっ。「ふーん、何やら軍事施設のようなモノが見えますネ。哨戒している兵士が行ったり来たりしているように見えます…」「その通りなのです…」老翁は俯いた。「あの地震の混乱自体は収まったようなのですが、あの様子を見るとおそらく軍事クーデターが起こっているようなのです。この国では間々見られるパターンですヨ。」老翁は諦め切った様子で言った。「そういうわけなので、お二人の意志に関わらず、お二人はこの島での暮らしを続けざるを得ないでしょうナ。私は生活がにぎやかになったので嬉しいのですが…」老翁はオミクを見た。オミクは少しはにかんだ。

「なるほど。了解しました。ところで、翁、深い話になったので今更ながら伺いたいのですが…」青木はちょっと翁の反応を気にしながら問いかけた。「この島はウサギしかいないウサギ島、それは良く分かりました。ワオキツネザル、メガネザル、マウンテンゴリラ、マントヒヒ、スローロリス、インドゾウ…とにかくフィリピンの他の島に生息している動物のすべてがこの島にはいません。ひたすらウサギのみ。しかも、日本のウサギですよネ、この種は。これはどうしたワケなのですか?」青木は真摯なまなざしで老翁を見つめた。「ふむ…もうその話から逃れるわけには参らないでしょうナ。お話ししましょう。あれは戦時中のことなのです、以前にも少し申し上げましたが…激戦になった他島から逃れてこの島に漂着した日本兵は相当数に上っていたのです。彼らは一様に皆、極度に腹を空かせていました。青木さん、あなたのおっしゃるような動物は彼らが皆すべて食べ尽くしてしまったのです。」「…」あまりに衝撃的な告白に青木は呼吸するのも忘れていた。「悪くすると、私たち住民すら食べられるのではと思ったほどの地獄絵図でした…しかし、その兵たちをうまく抑えたのは彼らの上官に当たる将校でした。この将校が父に日本語を教えた人でもあるのですが…たまたまとは思いますが、あなたと同じアオキという名でしたヨ…」老翁は敬慕の表情で空を見上げた。「将校は殺伐とした戦地での生活に少しでも癒しをもたらすべく、日本の実家で飼っていたという雌雄のウサギを二匹持参して来ていました。末端の歩兵には許されない特権で持ってこられたようです。終戦になって日本に帰る際、このウサギを我々に置いていってくれたのです。アオキは言っていました、“大変なご迷惑をおかけした、今やお前たちの島は獣の全くいない島となってしまった。そこで、このウサギをやろう。こいつらの繁殖力は相当なものだ。動物が死に絶えたというのは災厄だが、一面こいつらの天敵が全くゼロの状況になったとも言える。どうかこいつらをドシドシ繁殖させてやってくれ、そして、この島を特色ある島として、隠れた楽園として甦らせてくれ…”そう言ったのです、彼は!じつに立派な方でした…」老翁の意識はふいに80年近く前に瞬時に遡り、往時の感情が一気に戻ったようであった。老翁は涙が止まらなくなっていた。「…」この島がウサギだらけであることの思わぬ真相を聞き出して、青木は何か偉大なモノに打たれたような心地になり、粛然と立ち尽くしていた。(続く)