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とうとう…
反社会団体が数ヶ月前に分裂して
いつ抗争が??なんて市民はヒヤヒヤの生活を送って来たが
ここ数日…全国あちこちで
火種が…付き始めてる

昔…山一戦争と言われる
市民を巻き込んだ抗争事件が有ったの事を
記憶にある人も多いと思いますが

そんな最悪の事態は・・・
コソコソ …(・_・ )ノ | 柱 |

ここ数ヶ月…
覚醒剤が大量に日本に入って来て
水際で押収されてるけど
それも意味が有る事なんですよ!
抗争になればお金が必要となり
武器を買うのでもお金
そのお金を手っ取り早く儲けるには
薬物で…って事なんですよ

最近の組組織では
薬物はごはっとうと言うけど
上納金の金額も上がって
普通に払えなくなり
薬物犯罪に手を染める組も多いと

この先、血で血を洗う・・
そんな事件が増えるのか??

関係者での争いだけなら良いと思うけど
流れ弾・人間違い…
そんな事が有り得ると

神戸1の繁華街には
道を挟んで300Mくらいしか離れて無い
対立しあう組があり
今日の昼、関係者同士のカーチェイス&事故があった

この先…日本全国で何かしら事件の臭いが
プンプンするのは私だけでしょうか??

私も関係者に間違えられ無い様に気を付けないと…(笑)




山一抗争について…


1981年山口組の三代目組長
田岡一雄の死去によって
跡目を巡る抗争が始まったと…

四代目組長に内定していた
山本健一が服役中に病死して
この時点で国内最大組織である山口組の分裂危機が芽生えていた

山本広が組長代行に竹中正久が若頭に就任
組は山本派と竹中派が形成された

跡目争いは混沌としていく中…
故田岡組長の妻である田岡文子の強い意向で
1984年に若頭・竹中が四代目山口組組長に就任

反発する山広派は竹中四代目は認めないとして一和会を結成
両陣営の対立は決定的なものになる

山本広が山口組を脱退した時点での勢力は山口組は約4700人
一和会は約6000人と一和会が有利であったとされる

ところが一和会に付いた組は
山口組の紋章が無くなると途端に稼ぎが激減
さらに四代目山口組の猛烈な切り崩し工作で
当初は数の上で優勢だった一和会はガタガタになり

劣勢に立った一和会は起死回生の策として
四代目竹中組長の暗殺を謀る

大阪は吹田市江坂のマンション玄関のエレベーター前で
竹中組長と山口組No.2の中山組長と南組長が
一和会のヒットマンらに撃たれ中山と南が即死
竹中は重体となった…

竹中は意識不明のまま翌日に死亡した
山口組は短期間の間にトップとNo.2を失う事態となった

No.1・2を殺された山口組の怒りは凄まじく血の報復が始まった

山口組本部長・岸本才三は「組方針を不言実行、信賞必罰」と宣言
一和会後藤組若頭・吉田清澄を拉致
竹中正久殺害を指揮した山広組若頭・後藤栄治の
居場所を吐くようにと暴行を加えた

これに対し後藤は配下の組員に後藤組の解散届を
三重県津警察署に届けさせ山口組本部に「詫び状」を送付


これだけに留まらず次々と一和会系組員を襲撃
多数の死傷者を出した。


317件の抗争を起こし25人が死亡
(山口組8人、一和会17人)70人が負傷
逮捕者は500人以上…

この抗争は国内最大の暴力団組織で勃発した内紛ということもあって
ヤクザばかりか一般社会にまで広く影響を及ぼす格好となった

大阪・神戸を中心に昼夜を問わない
拳銃発砲や爆発物の投てきが繰り広げられ
一般市民も巻き添えを受けた


抗争は山口組の圧倒的な優勢が確実なものとなり
終戦ムードが高まった
さらに稲川会と会津小鉄会が
山口組幹部に一和会との和解を打診

1986年山一抗争の終結を山口組側が同意した事を警察が確認
1889年一和会を最後まで率いた山本広が
一和会解散と引退を表明
山口組に謝罪に赴く
こうして約4年半に及んだ山一抗争は
山口組の勝利で終息したとされてます