今日は、こころヨガの日でした。
前回の記事を投稿して向かった、こころヨガ。
しいたけさんの言うところの正直のルールを意識して書いてみたんですけど…すっきりしない。正直のルールをマスターできてないから。
ふぃんさんとかじゅりあん4さんとかの記事読んでる方が全然役立つってどゆこと?みたいなことを、過去の出来事について書きたいみたいなんですけど…何のため?
それは、自分が大変だったことを同じくらいわかって欲しいから。こういうことを患者にするのは良くないと知って欲しいから。。。
あと「学会の思い出」って記事を以前から書きたくて書けてなかったこと。あれは強烈でした。質疑応答の時、どう見ても明らかないちゃもん。はじめて潜伏した学会で、何があってるのかと唖然とした。終わってから言った向こうが自分を落としたんだって言われていたけど…それでは済まないモヤモヤが残りました。わくわく興味の赴くまま楽しめた部分もありましたが…驚くような野次側の理屈に唖然。言われた側の、呆然とした表情…そういうことの方が、今は思い出されてしまう。
さてと、本日はパタンジャリのヨガスートラ。
『サマディに向かうには』
サマディって言うのは、修行をして到達する最高の地位?境地?頂点。そこを目指して、インドの人たちは修行をするそうです。
まず、紙の真ん中に線を引いて…
左がクリスタ(苦痛)、右にアクリスタ(苦痛でないもの)を書き出す
私が、左(苦痛)に書いたのは
・職場の人間関係
・考え込むこと
右(苦痛でない)に書いたのは
・犬の散歩
・食べること
・寝ること
・家族との時間
これを苦・楽では分けなかった事についても説明がありました。
苦痛である事が丸の中にあって。丸の外は苦しみでない。
でも、実は苦痛である事は苦痛でない事にもなる。苦痛である事の丸に穴を開ける。気づくことで、丸をC(←丸のここが開く)にして行く。どうやったらほどけるのか?
ここで、ほどく→ほとけが転じたものとのお話があって。いろんなしばりをとってほどけ切った状態が仏である。
逆にヨガ=結ぶという意味があるそうです。
私がほどけた状態は、神の様な存在そのものなんだそうです。
ここまで説明して、インドではサマディに向かうためにいろんな修行があるそうで。
ひとりの人は、じっと座って耐える修行をして居て。蟻山になって居たところに、神さまに会いに行く人が通りかかって。それなら、私があと何回転生すればサマディに到達できるか聞いて来てくださいとお願いされたそうです。
しばらく歩いていると、楽しそうに踊り続ける修行をしている人に会いました。神さまに会いに行っていると知ると、この人もあと何回転生すればサマディに到達できるか聞いてきてくださいと頼まれました。
そして、帰り道。
蟻山になって修行に耐えてる人は、あと4回でサマディに到達できるそうです。と聞いた途端、こんなに苦しい思いをしているのにあと4回…と泣き出してしまったそうです。
次に踊り続けている人。
あとあの木の葉の分だけ転生すれば、サマディに到達できる。と聞いた時、あああれだけでいいんですね。もっとこの山の木とか言われるより良かった。限りがある。いいですよ〜。そこに、スッと神さまが現れて、あなたはもうサマディに行けますと告げられた。一方、蟻山の人…あとたったの4回だったのに、泣きだして。あの人は、まだまだ…
サマディとは、続ける覚悟ができたらbeyond。くり返す覚悟があれば到達できる。
苦しいと続けられない。
やりたいと思っていること(愛があること)は、続けることができる。無心で無欲で…あの木の葉の数だけ…限りがある。いいですよ〜って思えること=続けられること。
あとひとつ。
私が苦痛にあげた職場の人間関係について。
今、取り立てて何かがあるわけではないけど…これまでの経験上、裏切られるような不安がある。ヨガをはじめて、ずいぶん小さくなったけど…ふつふつと湧いてくる不安。
人間関係33番
『慈悲喜捨』
あなたの目の前の人は、4つのどれか。
スカー(幸せ):一緒に幸せな人を愛して、慈しみましょう
デュッカ(不幸せ):一緒に不幸を哀れみ、悲しみましょう
プンニャ(徳がある人):人が見てないところでも誠実にいいことをしている。誰かに褒められたいからとかではなく。一緒に喜びを感じる。
アプンニャ(徳がない人):裏切る、意地悪する、盗む。そういう人放っておく。捨てなさい。そういう人考えるのやめて、関わらないようにする。無関心=心をそこに向けない。
ここでは、こんなお話がありました。
ある大事なお茶会の席で。下っ端の人が準備に忙しく関わっていて。茶釜に水を入れておくのを忘れて大失敗。もう、そこに顔を出すことができなくなった。
その下っ端の人の失敗は、デュッカ(不幸せ)に当たるんだけど…本人がアプンニャ(徳がない)と思ってしまった。自分がアプンニャと思っていると顔向けできない。申し訳ないと思っているから。
ところが。
お師匠さんに久しぶりにばったり会って。その節は…とお詫びすると。なーんだ、そんなこと気にしてたの?忘れたよ〜って。大きな人で、気にしてなかった。忘れた=何でもない。これで、苦痛を囲む輪がほどける。そんなお話でした。
そして、この4つは誰の中にもすべての要素があって。
たとえば、小さな子がお店の展示品を気に入ったから盗んだり欲しがる。アプンニャな部分。
そんな時、あなたのことは愛しているけど、それはダメよ。存在を愛しつつダメなことはダメと言う。
存在が傷つけられることは絶対ない。
慈悲喜捨に分けるけど、もともとの存在は同じなんだよ〜〜。
あと、徳は出す必要が無いと見れないものとも言われてました。
はじめての学会で見たモヤモヤは、アプンニャだったのでしょう。あれは、無関心=心をそこに向けない。で対処すればいいんだ。うーん、無関心がぴったり。
今日のこころヨガも、今の私に必要ないいお話でした
おやすみなさい💤