論理は常に後ろ向きで進むべきだ。前向きで進むと、展望、目的、利害を持ってしまい、論理がそれらに引き摺られて不純になってしまうからだ。論理を進めるには時間がかかることを考慮した場合、時間軸が直線であると仮定して、今を回転の対称点として状況を180度反転してみると、過去にケツを向けて過去を探るべきだということになる。過去を見ると歴史という理念を持ってしまい、実証性が危うくなる。では、元に戻って、後ろ向きに論理を辿る時、目の前に見えるのは、歴史ではないのか? そうではない。それは自分の足跡だ。たとえ先行者の足跡であれ、そっくり再現し体験できるものだ。ということは、論理の連鎖は、非歴史的だということになる。もしかしたら、それは、宇宙の文法であるかもしれない。人間界を顧慮していない可能性がある。
この事態を好まず、慨嘆するのは許されない、というわけではないが。


あるひとは偉人であり、あるひとは犯罪者であり、またあるひとは、両方を兼ねており、しかし、圧倒的多数のただの人エヴリマン、アヴェレイジ・ジョウは勿論のことだが、だれひとり、痕跡をこの地上に限っても残さない。これは、全員の宿命であるので、なんら恥じることも悔やむこともない。痕跡とは何か。自然には逆らえない、従って、自然に痕跡はつけられないという意味での痕跡である。環境破壊のようなレベルの話ではない。星の生死のメカニズムを我々は変えられない。そこに伏在する原理には手が出ない。


知識と知恵の連鎖が終に宇宙が何でありわれわれが何者であるかを明らかにする時がくるかもしれない。人類の滅亡のほうが早い可能性が高いけれど。存在が存在自体を知によって了解する時が。知とは何であるか? 橋渡しだろう。彼我の、彼岸と此岸との橋渡しだ。


思考の進行には、意識的なそれと無意識的なそれとの二種類がある。前者を昼間に掻き立てておくと、後者が夜間に発動する。前者を昔掻き立てておいたので、後者が今になって発動することもある。私には自己がないので、ほぼ後者に身を委ねている。時に、これは思考か、単なる連想の連鎖ではないかと不安になる。が、それにも慣れた。支配や命令を嫌悪する私が、なぜ身を委ねるのか。支配や命令にはない快感が伴うからだ。疾走するジェットコースターに身を委ねる快感。退廃感。

道徳的感情と名誉心は、互いに互いの代替物になりうるか、という古くからの問題がある。前者は集団に、後者は個人に依拠しているのに、見掛けは似ている。だから、特に集団と個人の垣根があいまいな社会では、代替物になりうる。代替物にはなりえない場合、君は垣根が明確である社会に生きていることになる。>