タダヨシ、と叫ぶ声が、浸水した耳には、流れのせいでビブラートがかかって聞こえた。両肩を抱きかかえられて立ち上がる。口を大きく開けて息を吸い、閉じて、腹をへこませながら鼻から四回吐いた。砂と水と恐らくは鼻水が飛び散った。二人を三本足が支える。右足首をつかみ、捻挫した向きとは逆に、外側に曲げる。ただでさえ後遺症で血流が悪いのに、無理に走って最後は捻挫したので、左足に比べて一・五倍ぐらいに膨れ上がっている。

痛いか、どしたら、いいか。

慌てるとヒトミは言葉が下手になる。

ヒトミが膝間づいて、両腕で僕の手から足をもぎとり、胸に抱いた。僕はその胸に徐々に体重をかけていった。戦争の終わるころ、傾斜した草原に座り込み、僕の傷ついた足を抱き、甲と裏とを交互に舐めてくれたっけ…… ところが、今、体にひと波震えが走った。あっ、あの、ええと、きみの指が足の裏の傷穴に入っているぞ。間を置かず、第二波に襲われた。僕の手は空を掻く。ヒトミの左腕が伸びたが間に合わなかった。視界が急速に変化していく。黒い網目状の木の枝が下がり、幹が細くなり、連なる樹冠が見え、黒々と聳える清水の舞台が回転しながら通り過ぎ、星達が夜空に無数の引っ掻き傷をつけながら降りてきて、樹冠が逆さになってそれらを覆うと、枝と幹が後に続き、それぞれが太くなって、後頭部が迫りくる水面を、ない目で見たので、とっさに顎を引いて足首に額を近寄せようとした時、尻が水に落下した。ヒトミの胸に残した足が、古傷の陥没にヒトミの指をまだくわえ込んだまま、脳内のカウントにあわせて疼いていた。

ヒトミ、そこ、さわらないで。痒い、痛い、痒い。

僕は空を泳ぐようにもがいて自分の右足を奪い返した。左足を直角に立てて、その上に右足首を引っ掛けた。ふやけて膨れたそれは、生まれたての赤ん坊のように重く、おまけに揺れ、両手で補助していなければ、左足のふくらはぎのすぐ下あたりに渦を作りながら過ぎる流れに落としはしないかと危ぶまれた。赤ん坊の残像を払拭し、足の裏を観察した。かつては、陥没した傷口に噛んだ茶を突っ込んで笹で巻いていたこともあった。直ったと見なした後は、入り込んだ泥が乾燥して栓となって塞いでいた。今や、栓が水に溶け去って猛々しく開いた傷口の奥には、ふやけた皮膚が覆い及ばない、白桃色の脂肪と筋肉が窺われ、内臓と見まがうようで、我ながら? 恥ずかしくなる。

目をそらし、腰を水の中に下ろしたまま、周りを見回すと、いつのまにやら、ここあそこの木の根元が白い。崩れた白い円錐も見える。石灰がぶちまけられたり、積まれたりしている。僕達は帝国のテリトリーに入っていた。闇の中に、ハットリたちが身を潜ませているだろう。僕達を興味深げに、あるいは腹を立てながら観察していることだろう。

だいじょうぶだね。ヒトミがつぶやいた。ふり向くと、額をくっつけあいたいかのように婆坐りしたまま上半身を近づけてきた。その両眼は、間隔が開き過ぎている上にやぶにらみで、まわりにたくさんのそばかすを撒き散らしているが、美しく緑色に輝いていた。僕はヒトミのこけた頬を両手で包み、大切に大切にゆっくりゆっくり引き寄せて、鼻がぶつからないように少し顔を傾げておいてから、薄い唇にキスした。


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